NHK「ぼやき川柳大賞」を獲る方法

兵庫県のペンネーム落ちこぼれがボツ続きの体験を赤裸々に綴ります。

ボツつづきは人生そのもの

 「土曜ほっと」では毎週100句も読まれたんだから、それこそ猫も杓子も読まれたんじゃないか。あるいは自分の才能をもってすれば当然、読まれただろうと思う人は多いと思う。そういう人がもし我々と同じ挑戦をしたとすると、天狗になっているその鼻を早晩へし折られること必定だ。私がそうだった。2千通を超える応募があるということはここですでに倍率が20倍ということになる。2015年2月末、公開放送に行ってみて痛感した。ものすごい人の波がNHK大阪ホールに押し寄せていた。「こんなにたくさんの人と戦わなければいけないのか。こりゃあ勝てっこない。大変な競争率だ」と腰を抜かしたものだ。

ただしビギナーズラックというのはある。たとえば「毎週ずっとこの番組を聴いています。82歳にして初めての投句です」と書き添えた作品であれば、読まれることが多い。これはうなずける。「ここでリスナーをつなぎとめたい」という番組制作側の深謀遠慮が働くのはごく自然なことだろう。ところがその先が続かないのである。次の週となると「先週、初めての投句で読まれました。録音を家族に聞かせ、親戚からも祝福の電話がありました。ありがとうございました」というはがきがまた読まれることはあっても、肝心の川柳の作品でまた読まれるかどうかは別問題となる。筆者は大賞のあとの次の週にボツになることが多くて大いに悩んだ。同じ人ばかり選んでいると「一部の人に肩入れしていないか? 本当に公平な選句がされているのか?」と突っ込まれるので選者の目が一段と厳しくなるのかもしれないなどと邪推したりもした。しかし大西先生はそんなやわな人物ではない。一つの信念を貫いていらっしゃる。すなわち「面白い句しか選ばない」である。ボツになるということは自分の作品が面白くないからだ。自分に実力がないからである。私自身、放送終了後、しばらく頭を冷やしてからボツになった句を読み返してみた。なるほど我ながら赤面するほどの有象無象の駄句ばかりであった。汗顔の至り、汗だくだくといったところか。

 最近の投句の例で見てみよう。お題「集う」に対して私が番組ホームページからNHK大阪放送局へ送った句は次の通りだ。

「あの人が来ないと聞いて集ったが」

「マドンナに集うジイジは腰が伸び」

「リモートで集って下はまだパジャマ」

「目化粧で済ませた同士お茶をせず」

 ………どうだろう。どこか面白いだろうか。意味が通じるだろうか。これらはすべて「ボツ」の憂き目に遭った。まさに撃沈。あとで思えば当然の成り行きだった。

 話を「かんさい土曜ほっとタイム」時代に戻せば、私も5週連続で読まれないようなことがたびたびあった。さすがにへこんだ。同病相憐れむで、全国には「ブランク長い」さんとか「ボツの山」さんとか自虐的なペンネームを付けておられる方もいる。そもそも挑戦をしないとボツという結果もないのであって、向こうずねに傷があるということはすなわち生きている証し、勲章なのだ。

元巨人の江川卓投手の著作に「たかが江川されど江川」というのがある。それになぞらえていえば「たかが川柳されど川柳」だ。毎日そのことばかり考えていたのにボツとは……、この一週間の時間と労力を返してほしいと思ったこともある。しかし考えようによっては「ボツ」は人生そのものだ。負けてこそ人生、敗者にこそ真実がある。2020年に亡くなったプロ野球野村克也さんの言葉「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」はそのへんの真理を衝いている。また阿佐田哲也の名前で「麻雀放浪記」などを著したギャンブラー兼作家の色川武大(たけひろ)さんはその著書「うらおもて人生録」にこうも書いている。「八勝七敗なら上々。九勝六敗なら理想。一生が終わってみると、五分五分というところが、多いんじゃないかな」