NHK「ぼやき川柳大賞」を獲る方法

兵庫県のペンネーム落ちこぼれがボツ続きの体験を赤裸々に綴ります。

ラジオ深夜便に移行

 2019年4月、「ぼやき川柳」が「かんさい土曜ほっとタイム」から「ラジオ深夜便」に移った。第1、第2、第3金曜日の午後11時台だ。佐藤アナの代わりを第2土曜を中村宏アナ、第1、第3土曜を住田功一アナが務めるようになった。選者は余人をもって代えがたい大西泰世先生が続投。女性キャスターは置かなくなり、アナウンサーと大西先生が交互に句を読むスタイルに変わった。

 佐藤アナが「ぼやき川柳アワワワワー」ともだえることもなくなり、女性キャスターの「武器も持たない、金もない、権力も持たない。庶民の唯一の抵抗手段はぼやき川柳、ぼや川(せん)!」という決めぜりふもなくなった。男性アナウンサーが「人生の泣き笑い、ぼやきたい思いを川柳に込めて、リスナーの皆様からお寄せいただいています」と言うだけになった。

 初回の放送ではアナウンサーに硬さが目立った。佐藤誠アナのような関西弁のざっくばらんな名調子が影をひそめた。この表現が適切かどうか分からないが、「公共放送」を背負っているかのような、決して失言をしてはいけないという雰囲気が感じられた。しかし次第に大西イズムというか大西先生のなごやかなペースがのみこめてきて、中村アナは得意のオヤジギャグを飛ばすようになり、住田アナは家族ネタを披露して笑いを取るようになった。私は個人的に、後藤繁榮アナもぼやき川柳に向いていると踏んでいる。

ちょっと話が脱線したが、夜の放送に移って、一番大きく変わったのは入選句が半減したことだ。「土曜ほっと」では朝の連続テレビ小説を取り上げた句が選ばれたりしていたが、そういった「よいしょネタ」の句は一切選ばれなくなった。その分、玄人受けする秀作が競い合うようになり、まさに少数精鋭、群雄割拠、下剋上の戦いとなった。土曜日の常連だった川柳ファンも何人かは去って行き、代わりに新規参入してきたリスナーもいた。お年を召した方には午後11時台という放送時間が就寝時間帯に当たるのだろう。しかし「宵っ張り」あるいは「一度寝て目が覚めてしまった人」が多数、参入・参戦してくることになり、ますます油断ができなくなった。

この事態は当然ながら私の「ぼやき川柳」挑戦にも影を落とすことになった。それまでは2週に1度くらいのペースで入選していたのに、3カ月に1回入選すれば御の字というくらいにペースダウンしてしまった。絶望感とあきらめと目標を失った悲しみが私を襲ってきた。

「もうやめようか」とさえ思った。ラジオの川柳は「読まれてなんぼ」なのに読まれないようでは……。

ぼやき川柳、過去の入選句一覧

 入選句一覧です。ところどころ期間が空いています。この間はすべてボツでした。鬱々として暮らしました。 

(放送日の西暦年・月・日、お題、作品の順、大賞のときは大賞と書き添えてあります)

2013 3 2 お題「招く」 「ドアホンに映るとみんなカバになる」

 

     4 20 お題「順番」 「俺が先 私が先で死にもせず」 (大賞)

 

     5 25 お題「粒」  「新人は小粒ばかりと言う小粒」

 

     6 8 お題「店」  「この場所はどんな店でもはやらない」

 

     6 15 お題「傘」  「別れ際迷い断ち切るジャンプ傘」

 

     6 29 お題「風」  「華やかな恋にいずれはすきま風」

 

     7 13お題「道」  「かえり道今頃うかぶ 捨てぜりふ」

 

     9 28 お題「明日」 「明日からあまちゃんのない朝が来る」

 

     11 2 お題「注文」  「注文を復唱する子も舌もつれ」

 

     11 9 お題「テンポ」 「手拍子のすき間を埋めるわが夫」

 

     11 30 お題「準備」 「訓練をしすぎ本番 嘘くさい」

 

     12 7 お題「担う」 「親戚の手前 夫婦の会話する」

 

     12 14 お題「グラス」 「結論はグラスの底にすでにある」 (大賞)

 

     12 21 ラジオ初出演も句はボツ

 

2014 2 8   お題「似る」 「遺伝子がこの小太りを作らせる」

 

     2 15 お題「見事」 「義理チョコの一つもなくて妻とお茶」 (大賞)

 

     2 22 お題「逸れる」 「今買うとこんな物まで付いてくる」(大賞)

 

     2 22 お題「約束」  「会うたびに五分遅刻の義理堅さ」

 

     3 1  お題「運ぶ」 「上半身どうにか運ぶ下半身」

 

     3 8  お題「心」  「本心は上目遣いに秘めている」

 

     3 15 お題「おだてる」 「お似合いの夫婦と言われぞっとする」

 

     4 5 ボツになるも自家製の優勝カップについて放送される

 

     4 12 お題「コピー」 「かまぼこと言われるまではカニだった」

 

     4 19 お題「無い」  「金はないけれど幸せちょっとある」

 

     4 26 お題「あいさつ」 「お通夜では交わすあいさつモゴモゴに」

 

     5 17 お題「熱心」 「体重計トイレのあとに乗り直す」

 

     6 21 お題「癖」 「品薄と聞けば欲しがる悪い癖」

  

     6 28 お題「気軽」 「体重計 気軽に乗ってうなだれる」

 

     6 28 お題「気軽」 「切りましょう気軽に医者は言うけれど」

 

     7 19 お題「尽きる」 「話尽き しーんと一言 言ってみる」

 

     7 26 お題「通」 「褒めようもないときに言う 通好み」

 

     8  30 お題「大きい」 「天丼に 十二ひとえの小エビ乗る」

 

     9 6  お題「丸い」 「丸腰で妻に向かった若き日々」 (大賞)

     9 13 お題「切る」 「切り方に人柄が出る電話口」  

 

     9 20 お題「強い」 「突き落とし 今も息子は谷底に」

 

     9 27 お題「怖い」 「全米が震撼ばかり映画館」

 

     10 4 お題「味覚」 「本当はまずいと言えぬリポーター」

 

     11 15 お題「短い」 「故障する 保証期間を過ぎた頃」

 

     12 6 お題「香る」 「里帰り 実家の匂いが出迎える」

 

     12 20 お題「リボン」 「中身よりお高くついたラッピング」

 

     12 27 お題「使う」 「修理代 高いがために使い捨て」

 

2015 2 7 お題「咳」  「コンサート 曲が終わると咳だらけ」

 

 

     2 21 お題「 脇役」  「合コンに  引き立て役をおびき出す」

 

     2 28 お題「包む」 「包み過ぎ 食べて元取る披露宴」(大賞)

 

 

     3  14 お題「ちょっと」  「ちょっとだけ  剥がしてみたい  かさぶたを」

 

     4 11  お題「新人」  「先見の明がないからここに来る」

 

     4 25  お題「保つ」  「円満な夫婦のために保つ距離」

  

     5 9  お題「直す」  「なおったと言ったら医者に驚かれ」

 

     5 16  お題「 潤う」  「指をなめ  ようやく開く レジ袋」

 

    5 23 お題「冴える」  「失敗し創作料理に見せかける」

 

    5 23 お題「冴える」  「孫が来て  よどんだ空気  冴え返る」 

 

    6 6  お題「 草」  「道草を食った人ほど魅力的」

 

    6 27 お題「移る」  「仕事中  ぼや川つくり窓際に」

 

    7 11 お題「 カラオケ」  「デュエットで女性が空けた2メートル」

 

    7 25 お題「鳴る」 「腹が鳴る お構いなくと言ったとき」(大賞)

 

 

    9 12 お題「 学ぶ」  「学び過ぎ  知識が邪魔になる不幸」

 

    9 19 お題「座る」 「座布団を一枚あげる自分の句」(大賞)

 

    9 26 お題「正面」 「美人だと  後ろ姿は言っていた」

 

    10 10 お題「振る」  「割り振って  わが責任は軽くする」

 

    10 24 お題「磨く」   「人前に出ないようでは磨かれず」

 

    11 7 お題「本」  「贈られた自費出版を持て余す」

 

    11 14  お題「たしか」  「二階にはたしか用事があって来た」

 

    12 12 お題「 完璧」  「台本が完璧すぎて嘘くさい」

 

    12 19 お題「手品」  「マジシャンか  会うたび違う女連れ」

 

    12 26 お題「当たる」  「当たったら  辞める会社を勤め上げ」

 

 2016 2 6 お題「歌う」「歌でさえ  できる奴だと見せつける」

 

      2 20 お題「格」  「割り勘で上司の評価  格下げに」

 

 

      3 5  お題「出発」  「ダイエット  再出発を繰り返す」

 

      3 12 お題「 勝つ」  「瓶のふた  開けたくらいで勝ち誇り」

 

      3 19   お題「太る」  「入念に痩せて一気にリバウンド」

 

      4 2 お題「桜」  「あと何度  見れるかと言い  死にもせず」

  

      4 30 お題「文字」  「悪筆で  書いた自分も読めぬ文字」

 

      5 7 お題「 昼」  「不覚にも妻とお茶する昼下がり」

 

      6 4 お題「高い」  「入選し  飲めや歌えで高くつき」

 

      6 18 お題「痛い」  「カードでの衝動買いのひと月後」

 

      6 25 お題「流す」 「貧乏し 蛇口をきつく 閉める癖」(大賞)


      7 2 お題「先」 「効果には個人差あると先手打つ」(大賞)

 

      7 30 お題「野球」「エラーして自分が言うな  ドンマイと」

 

      8 6  お題「怠ける」  「機内から怠けもせずに  投句する」

 

      9 3 お題「安全」  「比較的  安全などと  円を言う」

 

      9 17 お題「学ぶ」  「ボツ続き  何を学んでいるのやら」

 

      10 1 お題「点」   「お見合いで互いにさぐる 妥協点」

 

      10 22 お題「なじむ」  「幸せはなじみの友と旨い酒」

 

      10 29 お題「あかん」  「土曜四時  あかんの叫び  全国で」 

 

      11 12 お題「読む」  「秋深し  読みごたえより食べごたえ」

 

      11 19 お題「墨」 「直筆の手紙に見える息遣い」

 

      12 10 お題「早い」  「プロポーズ  二つ返事で断られ」

 

2017 1 14  お題「風呂」 「オバチャンが 入れば湯船 ナイアガラ」(大賞)

 

     1  21  お題「正直」 「ぶっちゃけた話ばかりにあいそ尽き」

 

     1 28 お題「目指す」  「ぼや川の存続願い2千通」

 

     2 18  お題「守る」  「最大の防御はすぐに逃げること」

 

     2 25 お題「ぬるい」  「手ぬるいと人の処分は批判する」

 

     3 4 お題「ゆっくり」  「問いただす  妻の口調がゆっくりに」

 

     3 18 お題「踏む」  「値踏みされ肩身の狭い  ホワイトデー」 

 

     4 15 お題「 返事」  「美人かと聞いた鏡は返事せず」

 

     4 29 お題「意外」  「一滴も呑めない人の目が据わる」

 

     5 6 お題「受ける」  「すべるのはここで受けると思う箇所」

 

     5 13 お題「ゆるい」  「ゴムゆるみ  松の廊下になるパジャマ」

 

     5 20 お題「焦る」  「出世した同期に敬語  使いだす」

 

     5 27  大阪ホールでの公開放送  お題「ためらう」  「女子会に静かに呑めと言う勇気」 

 

     6 10  お題「曲がる」  「根性の曲がった同士  ウマが合う」

 

     6 17 お題「息」  「かざぐるま  妻は回すよ  ため息で」

 

     6 24 お題「作戦」 「サプライズ 受ける側にも上手下手」(大賞)

 

     10 7  お題「占う」  「ハルキスト  残念会で秋を知る」

 

     10 14 お題「芸術」  「音楽家  首席卒業  多すぎる」

 

     11 14 お題「分ける」  「取り分けてくれる貴女に恋をした」

 

     11 11 お題 「贅沢」「贅沢をカードで買って  ひと月後」

 

     11 18 お題「誓う」 「今回も誓いますかと聞く牧師」(大賞)

 

     11 25 お題「無口」  「割り勘と言われた途端  盛り下がる」

 

2018

     1 13  お題「犬」  「飼い犬は喋らないから愛される」

 

     1 20  お題「決意」  「健康のためなら命  惜しまない」

 

     2 3 お題「支度」  「終活が  いつのまにやら  生きがいに」

 

     2 10  お題「自慢」 「のど自慢  さびの手前で鐘一つ」

 

     2 17 お題「怪しい」 「口ずさむ歌が古くて年がバレ」

 

     2 24 お題「涙」 「全米が泣いた映画が多すぎる」(大賞)

 

     3 17  お題「咲く」  「一度でも  咲けば人生  もうけもの」

 

     4 21 お題「稽古」  「下稽古  重ね本番  マンネリに」

 

     5 19 お題「 運」  「俺なんか選んだ妻の運不運」

 

     6 2 お題「釣る」  「オバチャンとレディースデーが不釣り合い」

 

     6 9 お題「青い」  「まだ青い  ボツに落胆するうちは」

 

     6 23 お題「サイン」 「サインした自分史贈り友が減る」(大賞)

 

     7 7  お題「暑い」  「水不足  こんなに雨はいりません」

 

     7 14 お題「演じる」  「スマホ見て  親の背中を見ぬ子ども」 

 

     7 21 お題「消す」  「割り引きの  シールを剥がし定価見る」

 

     7 28 お題「半分」  「さあビール 冷やし忘れて半泣きに」  

 

     9 8  お題「きつい」  「薬剤師  医者より根掘り葉掘り聞く」

 

     10 13 お題「ドラマ」 「斬られ役 往生際が悪すぎる」(大賞)

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     10 27 お題「二人」  「あいつとは  二人になるとバカ話」

 

     12 11 お題「迫る」 「生きがいは 五輪改め 万博に」

 

     12 8 お題「鍋」  「次の世は 手鍋さげても 別の人」

 

     12 15 お題「変わる」 「フィアンセは 異性ですかと 問う時代」

 

     12 22  お題「便り」 「ライバルの 訃報を聞いて ひとり酒」(大賞)

 

2019 1 5 お題「景色」 「虹が出て 見知らぬ人と 口を利く」

 

     1 26 お題「カード」  「使わない カードに払う 年会費」

 

     2 9 お題「伝える」 「ときどきは 弱音を吐いて 慕われる」

 

     3 2 お題「回る」 「回らない 寿司だと逆に 落ち着かず」

 

     3 9 お題「町」 「十億を 払って軽で 町に出る」

 

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    4 5 お題「夜」 「飲み過ぎて 帰れば妻に眉が無い」

 

    6 21 お題「蛙」 「井の中の蛙が貯める二千万」

 

    8 9 お題「切符」 「切符だけ幸せそうなフルムーン」

 

    10 4 お題「祭り」 「歴史的番狂わせを二度起こす」

 

2020 1 10 お題「並ぶ」 「披露宴 親族はほぼ同じ鼻」

 

    4  3 お題「友」  「悪友の誘いに乗ってまた墓穴」 

 

    6 12 お題「ビデオ」 「名作の分かっちゃいるがここで泣く」(大賞) 

 

    9  4  お題「悔しい」 「孫の名が別れた女(ひと)と同じとは」

 

    11 20 お題「加減」 「暖房の加減くらいで妻と揉め」

 

2021 2 5  お題「追う」 「ストーカー マスクを取れば退散し」

 

    7 9 お題「参加」 「名簿では殺されていたクラス会」

 

    10 1 お題「たくさん」 「効いたのはどの薬だか分からない」

 

    12 3 お題「世話」 「世話もせず遺産分けには飛んでくる」

 

2022 2 5 お題「鬼」 「嫁姑よそから見れば鬼ごっこ

 

     4 8  お題「うそ」 「上げ底のブーツがバレる畳部屋」

 

     6 17 お題「覚める」 「酔いが覚め引っ込みつかず酔ったふり」

 

     8 12 お題「狭い」 「豪邸のガレージほどで衣食住」

 

     12 2 お題「鍋」 「女子会をかにすきにして口封じ」

 

2023 4 7 お題「若い」 「鼻歌が古くてバレる若作り」

 

     7 7 お題「星」 「プリン消えホシは二階で高いびき」

 

     9 8 お題「覚える」 「覚えたぞマイナンバーを言いふらし」

 

2024 4 19 お題「散る」 「おやじギャグいたたまれずに部下が散る」

ぼやき川柳大賞になった私の句

これまでの大賞句とそれにまつわるエピソードを紹介します。ただの自慢話ではありません。これらをはるかにしのぐボツがあったことをまず強調させてください。大賞をもらうために私は必死で努力をしましたし、何度も悔し涙を流しました。

 

1 「俺が先私が先で死にもせず」(平成25年4月20日)

 

初投句で初入選を果たしたあと、約1カ月間入選がありませんでした。そのあいだに私は予約録音ができるラジカセを買いました。紙と鉛筆で済むはずの川柳にしては高くついた初期投資です。これで仕事の日であっても録音予約さえしておけばあとで聞けるようになりました。そして4月、公開放送というものがあることもまだ知らない頃でした。NHK大阪放送局BKプラザで公開生放送が行われたらしいのです。お題「順番」に出した私の句が2度目の入選で初めての大賞受賞となりました。

モデルは父母です。愛媛県今治市。ここに私の実家があります。典型的な限界集落です。92歳の父と87歳の母は集落で唯一の動ける老人として生きています。身内の話で恐縮ですが、毎日のように口げんかをして、そのエネルギーを生きる活力にしているかのような夫婦です。父は昭和3年の生まれで高等小学校を出て働き始めたそうです。母は昭和8年の生まれで私立高校を出ています。見合い結婚で昭和30年に現在の場所に所帯を持ちました。父はたばこと酒におぼれましたが、飲むだけで買う、打つはなく、たばこ銭以外に小遣いを持ち歩くのを見たことがないほどお金に執着しない人です。家系なのか、ただただ真面目に働く人です。母は口から生まれたのではないかと疑いたくなるほどよく喋る人で、私が小2の頃ですから昭和44年ごろからでしょうか、近所の鈍川温泉観光センターホテルで事務員をするようになり、家計を支えてくれました。幼少期、見ていてもハラハラするほど父と母は話題が合いませんでした。「男を立てない」と父は怒り、母は「頭の程度が違いすぎる」と論駁しました。私が保育園児の頃、父は農業と炭焼きで生計を立てていました。のちに兼業で造林や今治のタオル会社勤務もするようになりました。田んぼが3反。野菜をつくる畑もありました。鮮魚だけは別で、今治から行商の人が軽四で往還(主要な道)に運んで来て、クラクションを鳴らすと集落のお母さんたちが財布を持って集まってくる習慣がありました。

愛媛の人は概して自分が死ぬ話ばかりをします。瀬戸内の温暖な気候がそうさせるのか感情の起伏が小さく、悲観的な会話が多いのです。今治の方言で「わしはもうあかん(もうだめだ)」「もう長ないわい(長くないだろう)」と言いながらも細く長く生き続けます。「お前よりわしの方が先に逝くけん」「なに言よん(何を言っているの)。私の方が先に逝くけん」というような会話が日常にされています。ところがどっこい、どちらも簡単にはくたばりません。長男である私は農業を継がず、18歳で東京へ出て新聞社の片隅で赤鉛筆を持って校閲をすることで生活の資を得る人間になってしまいました。父さん、母さん、ごめんなさい。でもますます長生きしてくださいね。

 「俺が先私が先で死にもせず」

 

2 「結論はグラスの底にすでにある」(平成25年12月14日)

 

 1979年のテレビドラマ「たとえば、愛」(倉本聰脚本、大原麗子主演)のテーマソングで豊島たづみが歌った曲に「とまどいトワイライト」というのがあります。宇崎竜童作曲で作詞は阿木燿子。歌い出しはこんな詞だ。「笑い過ぎたあと ふと気が抜けて 指でもてあそぶカクテル・グラス」。この曲をイメージしてこの川柳を作りました。

人はよく「あのとき背中を押してくれた恩師のあの一言がなかったら私の人生は変わっていました。あの一言で私の運命は開けたのです」などと言いますが、本当にそうだろうかと思うことがあります。実際は自分の中ですでに結論は出ていて、あとはそれを追認し、励ましてくれる誰かの言葉を待っていただけではないかと考えることがあるのです。人生の節目節目でいろいろな選択肢の中からその都度小さな、あるいは結果的には大きなチョイス(選択)をしながら人は生きていくものです。もし自分に向いていないチョイスであればどこかで引き返すことでしょう。そうしないでただ流されているだけであるというのもそれはそれで今の自分のチョイスなのではないでしょうか。

「結論はグラスの底にすでにある」

 

3 「義理チョコの一つもなくて妻とお茶」(平成26年2月15日)

 

​​​​​ この作品の放送日はバレンタインデーの翌日、2月15日でした。前の晩の14日夜、会社の廊下を歩きながら「見事」というお題について考えるうち、ふと思いついてスマホから投句したのがこの句でした。選者の大西泰世先生が放送中の講評で褒めてくださったのを覚えています。「情景が思い浮かぶようです」「奥さんは別の男の人にチョコレートをあげているんでしょうか」「奥さんと苦々しくお茶いを飲んでいるというのがいいじゃないですか」などとおっしゃいました。

私はバレンタインデーに関して、いい思い出が皆目ありません。よっぽどのイケメンでない限り、男は本命の女性に愛されることはないと思います。ふと、まったく興味のなかった女性からチョコレートをもらうことがあったりもしますが、それはそれで苦い体験となります。十代はなにせ多感な時期です。大学時代の先輩が言っていました。「好きになれない女性に愛されるというのはそれはそれでつらいもんだよ」と。もてる理由のない私のような男でさえそんな体験は少しありました。中学のときでした。2月14日。下駄箱のあたりで「R子ちゃんから」とA子さんからチョコレートを渡されました。「R子ちゃん?」。生徒会長をしていた私は戸惑いました。私はひそかにA子さんの方をかわいいと思っていました。しかしA子さんはその日、ただの受け渡し役であったのです。R子ちゃんの親友で、渡すよう頼まれただけでした。どんなチョコレートだったかも覚えていません。ただただ困惑したことだけをよく覚えています。その気になって確かめると、R子ちゃんは私より1学年下の大柄な女の子でした。

長じて、バレンタインデーが何度もめぐってきました。そのたびに本命の女性はおろか誰からもチョコレートをもらえない孤独な日を体験しました。学生時代のおそらく一番欲しいと思う年頃にからっきし縁が無かったのです。僕のなかに「残酷な宣告、もてないことが『バレた』いんデー」という強い意識が根付いていきました。

 数年後のこと。Xさんは私より二年あとに入社した女性です。東京の国立大から別の国立大の大学院に進み、教師をしたあとの転身でしたから年齢は僕より二つ上でした。生来の豪放磊落な性格でみんなに好かれていましたが、男縁は皆無に見えました。これは想像ですが、バレンタインデーにチョコレートを贈った経験がないようにも見受けられました。

 80年代後半のバレンタインデーの前々日のことです。隣の席にいたXさんに私は自分の過去がいかにチョコレートと縁のないものであったかを打ち明けました。「僕はいままでにチョコレートを三人からしか貰ったことがない。生徒会長をしていた中学時代に下駄箱のところで冷やかしに二人がくれた。あとは女房だけだ。高校、大学と誰一人として振り向いてはくれなかった……」。Xさんは熱心に聞いてくれましたそこで私が聞きました。「ところで十四日のXさんの勤務は?」「休みです」

 バレンタインデー当日は部会の日でした。Xさんは休みを返上して会社に出てきました。そして部会のあと、モッコリと膨らんだ会社の茶封筒を僕に差し出しました。「恵まれなかった暗い過去のために」と言いました。動揺した私はお礼の言葉をいうのも忘れて、その封筒を隠すように自分のロッカーにほうり込みました。

 自宅に帰ってそれが「モロゾフ」であることを確認したあと、私は、明朝、起き出してきた妻の目に付くように、これみよがしに台所のテーブルの上に広げておきました。

 翌朝、「なによ、これ」と声を荒らげるかと期待したのに、妻は「よかったねえ。誰に貰ったか聞いて欲しいんでしょう?」と来ました。やはり妻は私よりうわてでした。

 その日、会社で私は周りにいた親しい人にXさんからチョコレートを貰ったことを話しました。今考えるといかにももてない男のすることだと思います。皆、一様に呆れた顔をしてくれました。

 すると私の自慢話を伝え聞いた一年先輩のPさんがそれを評して言いました。「気の毒に、君はXさんの見栄のために利用されたそうじゃないか」。目からうろこが落ちました。

 ひと月後、お礼をしなければなりません。ホワイトデーに向けて近くの郵便局から「ゆうパック」を贈りました。キャンデーでもマシュマロでもなく、熊本県の漁港から生きたまま送るという車エビにしました。わずか三千円なので、八尾くらいでした。Xさんによると、お母さんが「生きているエビが届くそうだから、貰って来たらすぐ料理するからね」と言い置いて郵便局に受け取りに行ってくれたそうです。おが屑のなかで息絶え絶えになりながら生きていたのはわずかに三尾。Xさんはしぶといその中の一尾に自分の名をつけ、お母さんの手になるエビフライに舌鼓を打ったそうです。私としては「エビでチョコを釣った」ことになるのでしょうか。

 92年は転勤先の名古屋で一計を案じました。二月七日に、その年度に入社したばかりのQという女性部員をつかまえて千円札を一枚握らせました。「これでバレンタインデーに僕の自宅へブランデー入りチョコレートを郵送してくれない?」。先輩風には逆らえず、彼女は快くブランデー入りのチョコを送ってくれました。「快く」と書きましたが、実際はそうではなかったそうです。あとでQさんに聞くと、僕が所望したブランデー入りチョコを探すために名古屋・栄をあちこち、足を棒にして歩き回ったそうです。「なんでこんなことをさせられないといけないかと思って腹が立ちました」とはQさんの弁。確かに今なら立派なパワハラ、セクハラです。

「義理チョコの一つもなくて妻とお茶」

 

 

4 「今買うとこんな物まで付いてくる」(平成26年2月22日)

 

  2週連続での大賞受賞となったこの句はとても感慨深いものがあります。前週に続いて大賞を与えられることは少なく、相当ハードルが高かったからです。

夜中に目が覚めてしまって何もすることがなく、ぼんやりした頭でテレビをつけるとテレビショッピングを延々とやっていることがあります。「限定100」「現在お電話が鳴りっぱなしです」「今日だけ30%オフ」など、「今買わないと損をする」と思わせる仕掛けが満載です。大概はこぎれいな女性や甲高い声の男性が切羽詰まった様子で、購買心を煽っています。ときには、有名人でありながら「そういえば最近ちょっとドラマやCMに出なくなったなあ」と思う男優や女優数人が「すごい」とか「ほしい」とか言う、いわば「うなずき役」(ちょっとしたサクラ)で二、三人同席していることもあります。あるいは「えーっ、安い!」とざわめいたりのけぞったりする観客が動員されていることもあります(実は音声だけかもしれません)。甲高い声の主は品物の良さを次々挙げて、なかなか価格について触れようとしません。引っ張って引っ張ってようやく「それでは気になるお値段の方ですが……」と切り出しすす。「皆さん、いいですかあ? 何と何と9万9800円」とか言います。すかさず「さらに皆さん、下取りがあれば2万円引きの7万9800円。いいですかあ、さらにこの掃除機を今日は特別にお付けしましょう。1台じゃなく2台、ドーン。掃除機2台ですよ」などと、ほぼ永遠にこの人たちはテンションが高いのでしょう。

 寝ぼけている私は「掃除機は2台も要らない。うちは部屋が狭いし収納する場所がない……」と思います。「付録」の掃除機の方が、買わされる製品より高い品物なのではないかと訝ることさえあります。どこか催眠商法にも通じるような煽り方です。

 「今買うとこんな物まで付いてくる」

 

5 「丸腰で妻に向かった若き日々」(平成26年9月6日)

 

 2011年ごろNHK総合テレビの人気紀行番組「ブラタモリ」を見ていて「あっ!」と声を上げそうになったことがありました。「渋谷川」の源流を探るという企画でタモリさんと久保田祐佳アナが向かった先。そこはまさに私と妻の運命の場所だったのです。

話はさかのぼります。

 昭和五十八(1983)年十月十九日、大学四年の秋でした。

 実務教育出版という出版社を受験するため、その朝、私は受験会場である渋谷区千駄ケ谷野口英世記念会館へ向かっていました。

 怪しかった雲行きももはや我慢の限界と見えて、千駄ケ谷駅改札口を出るころにはポツリポツリと来始めました。幸い私には折り畳み傘の用意がありました。左へ折れてガード下をくぐり、ゆるやかな坂を下った辺りで、私は十メートルほど先に傘を持たないで歩く女性を見つけました。紺のツーピースにショートカット。明らかにそれと分かるリクルートスタイルでした。

 女性は、空色のハンカチを頭に被って降り出した雨を避けようとしていました。「可哀想だな」と思いました。が、私には咄嗟に思いついた善意を実行に移す勇気がありませんでした。そのまましばらく後ろを尾行するかのように歩きました。

 ――と、その時、風がいたずらをしました。彼女の髪からハンカチがヒラリヒラリと浮きあがり、彼女の背後に舞い落ちたのです。「行こう」。この時、私を席巻した勇気がいったいどこから来たものか、三十七年たった今もまだ分析できません。

 「入りますかあー」。確か私はこう声を掛けました。驚いて振り返る女性の右の横顔を私はチラッと見ました。「この人と結婚することになったりしないだろうなあ」。私はあらぬ予感をいだき、あわてて打ち消しました。田舎者のその頃の私には、女性との出会いが短絡的にそう結び付くのでした。

 女性は声の可愛い人でした。開口一番、「もしかして」と言いました。私が右手に持っている野口英世記念会館に至る略図は、彼女も今左手に持っているものでした。二人は同じ受験生だったのです。名前をHTといいました。

 そのあと二人がどうなったのかは想像にお任せするとして、このように出会って三年後に私たちは結婚しました。その出会いの場所が冒頭の「ブラタモリ」で紹介されていた渋谷川の源流付近だったのです。

 「出会いは美しいが、別れは醜い」。誰の名言でもなく私の言葉です。別れることなく夫婦円満を続けようとすると、それはそれは気の遠くなるような忍耐の積み重ねとなります。いろいろな諍いがあって今があります。若い時には実にささいなことで、無謀にも犬も食わない夫婦げんかをしました。初孫に恵まれ、二人とも還暦を迎えようとしている今はそんな夫婦仲も心なしか快方に向かっているように思えます。

 「丸腰で妻に向かった若き日々」

 

 

6 「包み過ぎ食べて元取る披露宴」(平成27年2月28日)

 

   2015年2月28日、「ぼやき川柳のつどい」が開かれました。数年に一度の全国大会のような催しです。舞台はNHK大阪ホール。月末の火曜日夜、「うたコン」の生放送をする場所です。その日は生放送ではありませんでした。1週間後の3月7日に放送する音源を公開収録する日でした。

勝負はまずチケットの入手からです。何カ月か前、番組の最後に今度、公開収録がありますと案内が始まった頃から往復はがきを出し始めました。定員に達した場合は抽選になるということだったので、家族3人の名前でそれぞれに応募しました。同じ郵便ポストからいっぺんに出すと全部はずれるような気がしたので、自宅近く、会社近く、大阪・梅田周辺など異なったポストから日を改めて3通出しました。職場には収録日に年次有給休暇を申請して退路を断ちました。2月17日、帰宅してみると3通の返信はがきが届いていました。妻の1通が当たって「2名分の入場整理券に引き換えできます」と書いてありました。私と娘の2通は抽選の結果、はずれましたと書いてありました。当選はがきに当日のお題は「弱味」「包む」とあります。弱味と包む? これはどう作るべきだろう? その日から格闘の日が始まりました。

 「包む」というお題は難しい。ぼやき川柳なのでぼやこうとするとき、幸せや希望に満ちた明るいお題だと作るのが難しくなります。たとえばヒマワリとか新入生とかよりも悔しいとか転ぶとか失敗談につながるお題の方が作りやすいのです。「弱味」はネガティブなイメージがあるので作りやすいのですが、陳腐かつ凡庸に陥りやすいお題でもありました。私は連日、寝食を忘れて弱味、包むについて考え始めました。これまでの人生で弱味を握られたようなことはあったか、何かを包んだことはあったか、自分に当てはめて実体験を探しました。そして携帯電話のメモ帳に、巧拙を問わず、思いつくままの川柳を記録していってはため息をつくのでした。「これでは入選できない。全国レベルには程遠い……」。NHK大阪ホールでは舞台上に入選句を映し出す準備が必要とのことで、いつもの放送のように生放送中に全国から句を受け付けるというようなことはなく、木曜日の正午までに投句を済ませてくださいとのことでした。ただし例外がありました。会場に来られる方は当日、投句箱を設けるのでそこで参加してほしいとのことでした。私は木曜までに何句かをNHKのホームページからインターネットで投句して、もしそれがボツなら当日の投句箱で勝負しようと両にらみの作戦を立てました。

私は小学5年生のときから毎日、日記を書いています。2月22日の日記にこう書き残しています。「弱味、包むの2題はともに作りにくい。NHKホールが大笑いになるような作品を作りたい。とか考えていたらきのうにつづいて閃輝暗点が出てすっかりしょげ込んでしまった」。閃輝暗点とは典型的な片頭痛の前駆症状です。片頭痛が起きる30分ほど前に、視野の中心に光のギザギザが見え始めて物が見えなくなり、ギザギザが視野の外に広がっていってやがて普通に見えるようになる症状のことです。イチョウ葉エキス錠を飲むと現れる回数が減ることを体験的に会得しました。

2月24日の日記にもこうあります。「ぼやき川柳の締め切りが木曜日なので必死で考える日々。上出来の作品が3つ4つできた。あとはバラバラに投句して当日までにもっといい作品を考えねばならない」

25日もあがいています。「ぼやき川柳は十句以上を出した。明日が締め切り。何とか2千人のホールで読まれたい」。このときNHK大阪ホールが2千人も入れると勘違いしていたようです。

正午締め切りの26日木曜日もまだ諦めていません。「ぼやき川柳を締め切りまでに少し出した」と日記にあります。あまりにたくさん投句しすぎてスタッフに迷惑を掛けている様子が見て取れます。これはあとで気づくことになるのですが、優れた句というのはたった1句でも必ず入選します。百戦錬磨、数え切れないほどの場数を踏んでこられた大西泰世先生はそれを見逃すことはありません。「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」式の投句は、それまで番組でも戒めていましたが、実際にしてはいけないことでした。練りに練って言葉を削ぎ落としてなおもっと適切な表現を探した末に句を完成させます。そして決められた数の句(大西先生がおっしゃるには1題につき2句まで)を応募して、堂々と撃沈すべきです。当時の私にはそれができなかったのです。

さていよいよ28日、NHK大阪ホールでの公開収録の日がやってきました。私は前夜から興奮してなかなか寝付けませんでした。妻は気管支炎で咳があり、遅れて行くというので、私は一人で東梅田へ出て谷町線で会場へ向かうことになります。結果的にこのとき一人であったことが運命を変えることになりました。私は梅田へ向かう阪急線の中で、会場の投句箱に書いて入れるお題弱味1句、包む1句を考えていました。包むで思い出すことがありました。前年の9月末、御嶽山が噴火した日に姪が横浜のみなとみらいで実に盛大な結婚式を挙げました。愛媛にいる私の母から「あんたは叔父に当たるんじゃけん、ご祝儀ははずまんといかんよ」とプレッシャーをかけられていました。大阪弁で言うところの「いちびってしもて(張り切り過ぎてしまって)」破格のご祝儀を出したことを思い出しました。あの日の披露宴ではケーキバイキングもあり、遅れてきて新札のご祝儀を用意せず、親である自分が新札に替えてやった息子が、ケーキだけはここぞとばかり幾つも食べていたことを思い出しました。阪急電車に座ってつらつらと考えたのが披露宴の句でした。

先に一人でNHKホールに着いた私は当選はがきを入場券2枚に換えてもらいました。入場券とともに投句用紙と鉛筆が渡されました。幾重にも人が並び、すでに長蛇の列でした。人生の大先輩、年配者ばかりです。私などは最年少に見えました。「こんなにたくさんの人が見に来るんだ。この数の人といつも放送で戦っているんだ。勝てるわけがない」と恐れをなしてしまいました。腹が減っては戦が出来ぬとばかり、近くの立ち食いそば屋さんで肉うどんを食べて英気を養いました。路上に平たい電源盤の覆いのようなところがあり、物を書くにはちょうどいいと考えて、そこで投句用紙に先ほど阪急電車で考えた句を書きました。「弱味と包むで1句ずつ書いてください。放送で読まれることもあります」とありました。住所は兵庫県ペンネームは落ちこぼれと書きました。きれいな字で書いた方が有利だろうかと考えると手が震えました。早めに会場へ戻り、投句箱に祈るような気持ちで投句用紙を投函しました。

当日の出演者は佐藤誠アナウンサー、大西泰世先生、アシスタントの千堂あきほさん、漫才のテツ&トモさんでした。

午後1時55分開演にマスクをした妻がギリギリ間に合いました。席は1階C12列8番。舞台からはずいぶん後ろの方でした。収録にあたって拍手の仕方などの「前説」がありました。妻がトイレに行っている間に佐藤アナが出てきて、「きょうの公開収録では会場で投句してもらいました。会場から選ばれた句が読まれます。全国からの応募が2千通。この会場の方が人数が少ないですから読まれる確率がはるかに高いですからね」と言うと笑いが起きました。「それでは放送で読まれる人を今から発表します。どこに座っておられるかを知りたいので、手を挙げてください。収録中はスタッフがマイクを持ってお席の方へ走っていきますので私の質問に簡潔に答えるようにしてください」。緊張が走りました。「僕の句は選ばれただろうか……」。数人のあと、佐藤アナの口から「兵庫県の落ちこぼれさん」と飛び出しました。待ってましたとばかり私は席を立ち上がり、会場に向かって両手を振ってしまいました。どういう心理かというと、「ラジオでおなじみの落ちこぼれです。私があの落ちこぼれです」というような……。そういえば私は中学時代に生徒会長をしていました。血が騒いだのです。

これでラジオ出演が決まりました。「弱味と包むで1句ずつ投句したけど、いったいどちらの句が選ばれたのだろう。もし弱味の句の方ならこう答えよう、もし包むの句の方ならこうコメントしよう」と作戦を練って心づもりをしました。

赤と青のジャージーを着てギターを弾きながら「なんでだろう」を連呼するテツandトモさんの漫才や大西先生の添削コーナーがあり、3時5分から「ぼやき川柳アワー」が始まりました。佐藤アナが身もだえするような声で「皆さんよろしいですか? いきますよ。 「ぼやき川柳アワワワー」と宣言すると、それだけで会場は笑いに包まれました。みんなラジオでよく聞いているので、待ってました! その名調子! あの声だあ!と思うのです。

木曜日の正午までに全国から集まった句の中から50句が選ばれて、佐藤アナと千堂さんが読み上げるタイミングに合わせて舞台上の大画面に句と都道府県名と名前が大映しになりました。そのたびに笑いが起きます。

時刻は3時30分になりました。佐藤アナが「ここからは会場からの投句ですよ」と高らかに宣言しました。千人を超える超満員の会場。固唾をのんで見守ります。一人の女性の名前が読み上げられました。ステージから見て左手です。まず入選句が大画面に映し出されて、テレビ用カメラがスクリーンにその人を映しだします。次は最前列のご老人。同じようにスクリーンに句が映し出されました。私は気が気でない心境でした。口から心臓が飛び出しそうになるとはこのことです。音が聞こえそうなほどバクバクしてきました。「さて次の句は……兵庫県の落ちこぼれさん。どちらにいらっしゃいますか?」と佐藤アナ。私はパッと手を挙げてまた起立してしまいました。句を選ばれた人で立ち上がったりした人はいません。「あっ、右手の奥で手を振っていらっしゃいます」。ラジオなのでマイクが届けられるまでの時間を稼ぐ発言もあります。テツ&トモのテツさんの方がマイクを持って私の方へ客席を駆け上がってきました。佐藤アナが続けます。「いきますよ。『包み過ぎ食べて元取る披露宴』」。もう一度繰り返して「『包み過ぎ食べて元取る披露宴』。このあたりで会場にどっと笑いが起こるのが分かりました。マイクが近づいてくると妻や周りの人はさっと身をよじって道をつくり、この騒動に巻き込まれないようにしました。私をとらえたテレビ用カメラの映像も舞台のスクリーンに大映しになりました。「どういうことでこの句を作りましたか?」と佐藤アナ。私の声はうわずります。「去年の10月ごろに姪の披露宴がありまして、夫婦で包んでいったのですが、ちょっと多く包み過ぎまして。こりゃあ取り返さなあかんと思って一生懸命食べました」。ここで会場が大爆笑になりました。漫才でウケるというのはこういう感覚なんだと肌で感じた瞬間でした。佐藤アナは急におかしなことを聞いてきました。「ところで落ちこぼれさん、いったいいくら包みはったんですか?」。私はこれが全国に流れる放送であることを咄嗟に思って、「お金のことを人さまに言うべきではない」と考えました。仕方がないので、ラジオなのに急に押し黙って手話というか手の指でご祝儀の額を示すことにしました。放送する側は困ります。佐藤アナは沈黙が続くことを避けるために、私の指の数を実況中継するはめになりました。私が両手10本の指を開いてみせると「10万」と佐藤アナ。私は首を振ります。今度は片手5本の指を開きます。「5万」と佐藤アナ。「50万?」とも言い足します。会場がどよめきます。私は大きく首を振ります。改めて両手10本の指を開いて見せてさらに片手5本の指を開いたところ、「15万」と佐藤アナ。ここでようやく私は大きく首を縦に振りました。佐藤アナは「皆さん、ご夫婦で15万円のご祝儀をだされたそうですよ」と言った。すかさず千堂あきほさんが「そりゃあ包み過ぎやわ」と言ってくれて会場に安堵の笑いが起きました。佐藤アナが大西先生に聞きます。「どうですか? 先生。お祝いの額が多すぎてちょっと取り返したくなる気持ちを巧く詠んでくれましたね」。大西先生は「」と応じて会場にまた笑いが起きました。私は「ありがとうございました」と言ってマイクをテツさんに返しました。左前に座っておられたご婦人が私の方を振り返って、「川柳の会かなんかに入ってはるの?」と聞きました。僕は「冠句の会に入っています」と言おうとしたが、冠句の説明に手間取るなあと思って、「はい、入っています」とだけ答えました。

3時50分が近づいてきました。「いよいよぼやき川柳大賞の発表です」と佐藤アナが高らかに宣言します。厳かにファンファーレが鳴ります。私は「ダメでもがっかりすまい」と自分に言い聞かせていました。すると「ここからは会場から選ばれた句です」とことわったうえで、「兵庫県の落ちこぼれさん」と言うではないか。「包み過ぎ……」と読み上げると会場に再び笑いが起きました。「そうそう、あの人のあの句だ」という笑いでした。番組も終わりが近づいてきました。最後に大賞句を獲った人に一言をいただきましょうということになって再び赤いジャージーのテツさんがマイクを持って再び階段を走りあがってきました。「15万円出して良かったですね」と問いかけてくれたのだが、私はもう舞い上がってしまっていて、その質問に答えることなく、こう言ってしまいました。「こうやって大勢の人の前で自分の句を読み上げてもらいたかったんです。それがかなって……。もう今死んでもいいです」。すると会場がドカンと大爆笑になりました。

「野球で言えばワールドシリーズのMVPに選ばれたような感じ。これ以上はない栄誉となった」とその日の日記にあります。収録が終わると大賞句を取った人は舞台の前まで来てくださいと放送があって、女性スタッフから記念品を渡されました。ちょうど佐藤アナがいらしたので私の方から話しかけました。「佐藤さん、いつも僕の句を読んでくれるのは佐藤さんなんです」。佐藤アナも「すごかったですねえ。良かったですね」と言ってくださった。私が「このホールはどのくらいの人が入るんですか?」と尋ねると「だいたい1200から1400人くらいです」「これくらい大きなところで読み上げられるのが夢だったんです。夢がかないました。一生の思い出になりました。ありがとうございました」と申し上げ、私は佐藤アナと固く握手をかわしました。佐藤アナはいつものようにおしゃれな帽子をかぶっておられました。番組の最終盤に「ありがとうございました。それではお別れに」と帽子を脱いでみせ、ホールの笑いを独り占めしていたのが印象的でした。

帰宅して記念品を開きました。NHKのマスコットのタオルハンカチ2枚が入っていました。大賞になった句をリボンに書いて、妻に贈ってもらった自家製の優勝カップにぶら下げて写真を撮りました。このときが通算42回目の入選、6回目の大賞受賞でした。盆と正月が一緒に来たような大騒ぎ。わが人生が最高に輝いた日、まさに我が世の春でした。

この日の収録の模様は1週間後の3月7日に放送されました。私が「今死んでもいいです」と叫んで会場がドカンとウケたところで音が絞られていきました。公開録音の再生を終えたスタジオで佐藤アナが冷静に「舞台と会場が一体になっていましたね」とコメントし、奥野さんが「自分の句が大賞に選ばれたら気持ちいいでしょうねえ」と言い添えてくれました。

その日は知り合いにメールで「ラジオに出ます」と知らせてあったので何人もが聞いてくれました。自分も録音をしました。聞き逃したという人のために同僚のK君に録音データの圧縮をしてもらい、CDに焼いて、郵送で配ったり手渡ししたりしました。あとで分かったのですが、私は一人で舞い上がっていたようです。すっかり浮いてしまっていました。両親や親戚以外はみんなCDのプレゼントが迷惑だったようです。「何度も聞いて笑っています」という返事をしてくれる人は一人もいませんでした。NHK大阪ホールの公開放送でぼやき川柳大賞を獲り、全国放送で肉声が流れるというすごさが分かっているのはおそらく自分だけだというのもよく分かりました。

「包み過ぎ食べて元取る披露宴」

 

 

7 「腹が鳴るお構いなくと言ったとき」(平成27年7月25日)

 

 自分が乳糖不耐症であると知ったのは28歳のときでした。めまいで埼玉医科大平衡神経科に1カ月入院しました。めまいの世界的権威である坂田英治教授が「牛乳を飲むとおなかを壊すでしょう」と言いました。病名は三つありました。大後頭孔症候群、中脳水道周辺症候群、変形頸椎症。坂田教授の説明では、「先天的に小脳がわずかに脳幹に垂れ下がっている。田んぼの水が涸れるように脳に血液が循環していないためにめまいがする。逆立ちをしてはいけません」とのことでした。2年数カ月、ふわふわするめまいが治らず、物が二重に見えたり手足がしびれたりするようになっていました。呂律が回らないということはありませんでした。以後、私の一生はめまいとの闘いに明け暮れることになりました。レストランでデザートにケーキが出されたら乳糖不耐症を説明して断らねばなりません。訪問先でケーキを勧められても同じです。牛乳を使った料理には口をつけませんでした。以前、乳製品の訪問販売の人にドアホン越しにこちらの事情を説明して断ると、「お大事に」と言われたこともありました。ビフィズス菌入りのヨーグルトも苦手です。ヤクルトも残念ながら効果がありません。乳製品は見るからにおいしそうで腹が鳴りますが、おいそれと食べるわけにはいかないのです。代わりに納豆、バナナ、スパゲティ、漢方薬イチョウ葉エキス、マルチビタミンマルチミネラルなどで「腸活」「菌活」をしています。ノーサンキュー、構いなくです。

「腹が鳴るお構いなくと言ったとき」

 

8 「座布団を一枚あげる自分の句」(平成27年9月19日)

 

 日本テレビ系の「笑点」はAさんの大好きな番組だった。

 他人の作品をとやかく批評することは簡単だが、自分の作品を第三者的に客観的に辛辣に辛口で批評することができる人はほぼいないのではないでしょうか。自分に関わることについてはすなわち座布団の数が甘くなります。そこで一枚だけに収めておきましょう。少しだけ自分を褒めてやるだけにしましょうというのが粋な男の姿勢ではないでしょうか。

「座布団を一枚あげる自分の句」

 

9 「貧乏し蛇口をきつく閉める癖」(平成28年6月25日)


 関西を代表するお笑い芸人の上沼恵美子さんが好きです。この人のすごいところは話術による描写力ではないでしょうか。たとえば海外旅行へ行ってレストランや免税店で人種差別的な目に遭い、大いに憤ったときの体験をしゃべります。何年も前のことなのに自分の置かれた状況や周りの情景、立ち会っていた人間の心理などを、もうこれ以上はないというように実に的確な表現で描写できます。聞いている者はまるで目の前で喜劇映画を見ているように次の展開を期待して大笑いします。関西人の特技である擬態語や擬音語を駆使しての「押しては引き、引いては押し」の言葉のキャッチボールも天下一品です。もはや芸術の域にあると言っても過言ではないでしょう。どんなお笑いの大御所もこのマシンガントークには太刀打ちできないのではないでしょうか。

ABC朝日放送ラジオで、毎週月曜日正午から約3時間、上沼恵美子の「こころ晴天」という番組が放送されます。私がこよなく愛してやまないトーク番組です。シャンプーハットのてつじさんとモンスターエンジン西森洋一さんが週替わりで登場。神戸大を出た局アナの北村真平さんがときに巧みに助言し、ときに無様に突っ込まれしながら上沼さんの話術にまんまと嵌まっていきます。いつだったか、この番組でてつじさんが「過去に付き合った女性で蛇口をきつく閉める人がいた」と話していたことがありました。私はこの話がいたく気に入りました。貧乏をすると、水道の蛇口一つでもきつく閉めるようになるものだなと納得しました。もちろん私も貧乏をしてきました。1980年代前半の学生時代は書籍代も含めて一日千円で暮らしていました。風呂・台所・トイレ共用の四畳半のアパートで出前一丁などの袋麺と食パンを食べて過ごしたこともありました。水炊きと称して電気コンロの鍋で白菜だけを煮て、ミツカン味ポンに浸しておかずにし、白ごはんを食べた夜もありました。かぐや姫の「神田川」「赤ちょうちん」を毎晩のように聴いていました。

 「貧乏し蛇口をきつく閉める癖」

 

 

10 「効果には個人差あると先手打つ」(平成28年7月2日)

 

 サプリメントのテレビ広告で、熱心に効果・効能を説くタレントがいます。よく目を凝らすと画面の下に小さい文字で「感想には個人差があります」「意見には個人差があります」などと書き添えてあります。もしこのサプリを買って飲んだのに効かなかったとあとで文句が来ても「画面にそうことわってありました」と言えるよう、あらかじめ「逃げの一手」を打ってあるのです。

 個人的にはサプリもいろいろ試してみました。健康な人の胃からとって培養した乳酸菌とかも試しましたが、乳糖不耐症の私にはどれも効きませんでした。

 近頃、イチョウ葉エキスの広告をよく見かけるようになりました。認知症の予防になるという触れ込みです。個人的に劇的な効果があったのはこのサプリだけです。その方面の回し者でも何でもありません。15年来患っている片頭痛の前駆症状である閃輝暗点の回数が、イチョウ葉エキスを飲むようになって劇的に減りました。欧州にはイチョウ葉エキスが薬として処方される国もあるそうです。

「効果には個人差あると先手打つ」

 

 

11 「オバチャンが入れば湯舟ナイアガラ」(平成29年1月14日)

 

あれはどうしたものでしょうか、22歳くらいの未婚の女性に50代のおじさんが声を掛けると、ずいぶんつれない返事をされるどころか必要以上に過剰なしっぺ返しを食わされることがあります。若い女性の本能なのでしょうか、おじさんは意味も分からずたじたじとなります。

ところが結婚・出産・子育て、介護などを経て人生の酸いも甘いも嚙み分けてオバチャン化してきますと人間がくだけてくるようです。些細なことは気にしません。食べたいものを腹いっぱい食べます。ガッハッハと腹を抱えて笑います。笑いすぎて歯の裏側まで見えることさえあります。もちろん小太りですが、少々体重が増えても気にしなくなります。女子会のランチでは1500円くらい使うことでしょう。かたやその旦那はワンコインで弁当を買い、掃除の行き届かない公園のベンチで独りぼそぼそ食べます。唯一の癒やしは缶コーヒーです。夜遅く帰ると、そんな旦那をオバチャンは舌鋒鋭くやりこめることがあるようです。

それでは何歳からがオバチャンかという議論もあります。関西では20代で早くも少し「オバチャン」が入っている女性もいないではありません。しかし私はそういう人が好きです。

と、まあ極論ばかり書きましたが、太ったオバチャンがお風呂に入るとドバーッと豪快に湯船からお湯が流れ落ちるような気がするのです。

「オバチャンが入れば湯船ナイアガラ」

 

12 「サプライズ受ける側にも上手下手」(平成29年6月24日)

 

 誕生日に高価なプレゼントをもらったり、レストランで不意に「とっておきの演出」があったりしたときにどう喜んでみせるでしょうか。日本人が苦手とする分野、永遠の課題ではないでしょうか。総じて日本人は上手に喜ぶことができないように思います。アメリカの映画を見ていると「わざとらしい」を通り越して、見ているこちらが恥ずかしくなるような過剰とも言える喜び方をします。「ワオー オーマイガッド。私が一番欲しかった物よ。どうしてこれが分かったの? パパ、ママ、ありがとう。大好き」などと言って娘はパパやママと抱擁を繰り返します。日本人の私などはそれ以前に、リボンを無造作に引っ張ってほどき、包装紙を乱暴に破ってしまう外国人の行儀の悪さの方に目がいってしまいます。もし日本人なら「この高島屋のの包装紙、あとでまた何かに使えるかもしれない」と思って爪で上手にセロハンテープを剥がすところから始めるはずです。箱を開けてプレゼントが出てきても「あら。どうしたの? 高かったんじゃない? 要らないと言ったのに」とか言って、贈り主が期待している以上の上手な喜び方ができません。贈った側も出費した割に相手には多くを望まないようあらかじめ自分に言い聞かせてあるので、「ホントに粗品ですみません」などと卑屈に応じてお茶を濁すことがあります。

「サプライズ受ける側にも上手下手」

 

 

13 「今回も誓いますかと聞く牧師」(平成29年11月18日)

 

 2019年10月20日、娘が神戸のホテルで結婚披露宴をしました。午前10時すぎから始まった厳粛な結婚式。チャペルには端正な顔立ちで理知的な外国人の牧師さんがいました。いかにもおだやかなたたずまいで新郎新婦に「永遠の愛を誓いますか」と尋ねました。二人はうつくしくそれを誓いました。こんな場で花嫁の父はよく泣くと言われますが、当の私は「やれやれ、娘がやっと結婚してくれて良かった」と胸をなで下ろしていました。きょうび、生涯独身を貫く者あり、指向に沿ったパートナーを選ぶ者ありです。結婚に関して、私のように古く偏った考え方はもう時代遅れです。

それにしてもあの長身の牧師さんがもし日本人のおじさんだったら荘厳な結婚式の雰囲気もずいぶんと違ったものになっただろうと後日、親族の間で話題になりました。クリスチャンの家内はこんなことを言いました。「あの日は日曜日だったよねえ。おかしいなあ。あの牧師さん、日曜礼拝はなかったのかなあ。本当はただの雇われ牧師だったのかなあ?」

何度目の結婚であっても人は「永遠の愛を誓います」と言うものでしょう。そのときはまぎれもない真実なのですから。ただし前回と同じ牧師さんの前で誓うかどうかはわかりません。

「今回も誓いますかと聞く牧師」

 

14 「全米が泣いた映画が多すぎる」(平成30年2月24日)

 

 映画館に行くと本編が始まる前に予告編を延々と見せられます。遅れてくる人への配慮というよりも本編終了後に予告編を見せても館内に残ってもらえないから先に見せておこうという商魂の方が上回っているように思います。これを「事大主義」と言わずして何と言えばいいのだろうかと思うような大げさなナレーションを聞かされます。男の低い声で「全米を震撼させた超大作が遂に日本上陸!」とドルビーシステムによる、腹にズシンと来る「ズーン、ドーン」という音もわざとらしい気がします。そのあと「映画鑑賞のあとは、夜景を見ながら身も心もリフレッシュ! 当館5階の焼き肉専門店『ソウル』へぜひどうぞ」などと中年女性の声で流れる広告も、急に飾りっ気がなくなって物悲しい印象を受けます。世界の巨匠による最新作なら「構想10年、撮影2年、製作費○十億円」と謳いあげ、難解な作品の監督の場合は「鬼才」と持ち上げます。映画をあまり知らない人のためには代表作「○○○」の×××監督がクリスマスに贈るニューファンタジーと売り込みます。「構想10年」と言っても、10年前にたまたま原作を読み、いつか映画にしたいと思っていたけれど資金繰りがつかなかったり、脚本ができなかったりしただけなのではないかと勘ぐりたくなります。前作の興行成功に気を良くして「ジョーズ2」「ラブーム2」といった二番煎じをたたみかけてくるのもいかがなものでしょうか。ジョーズはいったい第何作までいったのでしょう。それと「△△国際映画祭審査員特別賞受賞作品」といった「箔」に弱いのも我々です。

そういう意味で、「全米が泣いた」というのも真偽が怪しいと感じています。全米という場合の映画館の数はいくつでしょうか。映画館の暗がりで本当に泣いているところを誰がどうやって目視したのでしょうか。アメリカ人の泣くところと日本人の泣くところが一致するのかどうかもやや疑問です。

全米が泣いた映画が多すぎる」

 

 

15 「サインした自分史贈り友が減る」(平成30年6月23日)

 

 二〇一八年六月二十三日にはNHK神戸放送局1階「トアステーション」でぼやき川柳のつどいがありました。兵庫県民としてこのチャンスを逃す手はありません。お題は「サイン」「輝く」でした。神戸放送局は大阪ホールのように1200人以上も入ることができません。200平方メートルくらいしかないので、2020年のコロナ禍のときは金曜日夕方の「ジャズライブ神戸」が中止になったほどです。予告の放送で、応募多数の場合は抽選となるという説明があったので私は手段を選ばず遮二無二応募することにしました。家族4人の名前を使って入場整理券をもらうために奔走しました。往復はがきを出す日やポストを変えて当たるよう励みました。結果的に娘のはがきが当たり、入場できることになりました。

 さて当日です。携帯電話のメモ帳に2句を用意して臨みました。一句目はお題「サイン」で、「サインした自分史贈り友が減る」。二句目はお題「輝く」で「オバチャンが我が物顔のレディースデー」というのを作りました。午後0時半に神戸放送局に着くと、佐藤アナの下読みというかおしゃべりの練習が始まっていました。本番までに何をしゃべるか総ざらえしている様子でした。キャスターは奥野史子さん。二人で本番を想定して会話も始めていました。生放送の前にこうやって何げない会話まで準備していることに敬服しました。私は係員の方にここに立ってお待ちくださいと言われて列の中にいました。左手に現在放送中のテレビ各局のモニターがありました。さすが放送局だなと感心しました。しかし職業柄、一つ気になったことがありました。BS放送のモニター画面の下に「衛生放送」と誤字のシールが貼り付けてあったことです。「ここで間違っちゃあ、いかんだろう」とツッコミを入れてしまいました。

閑話休題松山商との延長十八回引き分け再試合を演じた三沢高の太田幸司さんがゲスト、さらにタレントのかみじょうたけしさんが九回表に4-10から9-10まで追いついた2009年夏の甲子園日本文理中京大中京の決勝の再現をしてみせました。僕らの世代は一九六九年八月の太田幸司を覚えています。時代のヒーローです。

その日の「かんさい土曜ほっとタイム」の雑談はサッカーのワールドカップ、ロシア大会1次予選で日本がコロンビアに勝ったことで持ちきりでした。ヘディングで決勝点を奪った大迫勇也の「半端ない」がにわかに流行語になっていました。

私は「きょうはラジオに出演する日」と思って来ていました。緊張して前の晩も深く眠れませんでした。前夜の夢にまで川柳大会の生放送が出てきました。もともと冷え症なのですが、いつにも増して指先が冷たく、氷のようでした。心臓が早鐘を打つようでした。会場に入るときに投句用紙と鉛筆が配られました。この会場で新たに川柳を考える余裕などありません。私は冷たくなった手で用意してあった二句を書きました。きれいな字で書かないとラジオに出られないと思って、書道五段の腕前を意識して書きました。「回収します」と言って投句用紙を集めているスタッフの住谷明日香、坪尾明音両アナウンサーの可愛いこと。「こんなに小顔できれいな人でないとテレビには出られないんだ。僕はやっぱりラジオ止まりだ」と思いました。おじさんにあまりにジロジロ見られたせいか、投句用紙を受け取りながら住谷アナが少し恥じらうような表情を見せたのが印象的でした。

ラジオ出演を覚悟して神戸に来た以上、本当に実現するか否かが分かる瞬間が一番緊張しました。午後三時前、「ぼやき川柳アワー」が始まるにあたり、「会場に来て投句した人で大西先生に句が選ばれた人」の発表がありました。まず佐藤アナが5人くらいの名前を呼び、「どこにおられますか」と挙手を促しました。ところがその中に私の名前はありませんでした。放送ではいつも佐藤アナが私の句を読んでくれているので「どうなったんだろう!」と大変なショックを受けました。「今日は、これはもう駄目かもしれない」と思うと、心臓が口から飛び出るくらいバクバクし始め、顔に血がカーッとのぼるのが分かりました。続いて奥野さんから5人の名前が発表されました。その中に「兵庫県の落ちこぼれさん」があったのです。「はい!」と元気よく手を挙げたのがおかしかったのか、僕のペンネームがおかしかったのか、背後の女性がケラケラと笑いました。

いざ放送本番です。大阪ホールと違ってスクリーンに句が映し出されるという演出はありませんでした。まるまる音だけで入選作の発表が続きました。私は二句のうち、いったいどちらが選ばれたのか分からないので、こちらの句だったらマイクに向かってこう言おう、逆にこちらの句だったらこう言おうとコメントを考えるのに必死で、ほかの人の入選作を味わって大いに笑う余裕などありませんでした。大西先生は和服にウイッグ姿で、生放送に浮足立つこともなく普段通りの振る舞いをおられました。「大物だ。すごい人だ。到底かなわない」と思いました。さていよいよラジオ出演が近づいてきました。会社の知り合いにショートメールで「今からNHKラジオに出ます」とだけ送りました。

奥野さんの口から「次は兵庫県の落ちこぼれさん」と呼び出しがかかりました。佐藤アナが「どちらにおられますか」と合いの手を入れます。私が挙手をして、例によってまた立ち上がってしまうのです。奥野さんが「拝見すると落ちこぼれたっていう感じの人ではないですね」とおっしゃいます。続いて「いきますよ」と言い、「サインした自分史贈り友が減る」と読み上げます。さらにもう一度これを繰り返します。このあたりで句の意味がのみ込めたのか、会場から爆笑が起きました。後ろからマイクを持った女性スタッフが近づいてきました。「どういう気持ちで作りましたか?」とステージから佐藤アナが問いかけます。マイクに向かって話しました。

「私は二十八歳で病気をして入院をしたんですけど、同じ部屋の人と本を作ろうということになりまして、退院後に自費出版をしたんです。ポエムの。いざ出来上がって知り合いの人とかに50冊くらいですかね、サインして贈ったんです。ところが迷惑だったのか返事が来ない人がいたりしまして(ここで会場が大笑い)友だちが減りました。もし自分史だったらもっと切実なんじゃないかと思ってこの句を作りました。家にあと250冊ぐらいあるのですが、自分が死んだときにお葬式で配ろうかと思っています」。緊張して舌がカラカラになってうまくしゃべれませんでした。ここで佐藤アナが大西先生に尋ねる。「どうですか。大西先生」。大西先生は「お葬式で配るのもやめた方がええんちゃいますか? 迷惑だから」(ここでドカンと笑いが起きました)

さてぼやき川柳大賞の時刻になりました。私は会場や先生の反応から「もしかしていけるかも」というほのかな確信がありました。はたして「ぼやき川柳大賞は会場からの兵庫県の落ちこぼれさん」とコールがあって、もう一度あの句が読み上げられました。ここでもまた笑いが起きました。番組の最終盤、エンディングの押尾コータロー「again」のギター曲が流れる中で、「大賞受賞の喜びをどうぞ」とまたマイクを向けられました。私は準備していた通りにしゃべりました。「きょうは休みを取って来た甲斐がありました。感動しました。半端ない感動を得ました」。ここでまた会場に笑いが広がりました。私は有頂天でした。ただし、手の指先は冷たく、わきの下には汗をかいていました。

番組が終了しました。「大賞受賞者はステージ前にお越しください」と言われたので、出て行くと大西先生が記念品を持って立っておられました。私にとっては「雲の上の人」なのでどう声を発していいか分かりません。先生から「きょうはお休みを取って来られて、良かったですね」と言っていただきました。握手したあと、「いやあ、もう緊張してしまって。手が冷たいです」と私が言うと、先生も「ほんと、冷たいですね」と笑っておられました。スタッフの皆さんにもお礼を言い、神戸放送局を辞することになりました。不思議なのは外へ出ても誰も私を振り返らないことでした。みんな何事もなかったかのようにそれぞれが帰途についています。興奮冷めやらぬのは自分だけで、みんなすっかり日常に戻っています。もちろんサインを求められることもありませんでした。私は阪急電鉄で帰宅しましたが、家に着いてもまだ心臓の高鳴りを感じていました。通算119度目の入選で15回目の大賞でした。いつものようにリボンに大賞句を書いて優勝カップにぶら下げました。

そのころ、会社の同僚のYさんから「ラジオに出ましたね。聴いちゃいました」とメールが届きました。「しまった! 聴かれてしまった!」と思いましたが、予定調和のような話で「一人でも聴いてくれている人がいて良かった」が本音でした。入社が同期のA君も「あの番組に聴き逃しサービスはないのかね」とメールをくれました。そのころはまだ聴き逃しサービスに「ぼや川」は入っていなかったのです。今は放送翌朝の午前5時から1週間、「ラジオ深夜便」の聴き逃しサービスで聴くことができるようになっています。

さて2020年のコロナ禍で公開放送は行えなくなり、公開放送での大賞受賞はこれが最後となっています。

「サインした自分史贈り友が減る」

 

16 「斬られ役往生際が悪すぎる」(平成30年10月13日)

 

 ​​​​​2021年1月1日、福本清三さんが77歳でその生涯を閉じました。「日本一の斬られ役」と新聞各紙に見出しがつきました。福本さんは1943年兵庫県城崎郡香住町出身。時代劇の斬られ役として名を馳せた名優です。朝日新聞の訃報によると、58年に東映京都撮影所に入り、「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」などに斬られ役として出演した。2003年公開のハリウッド映画「ラストサムライ」にも起用され、14年には映画「太秦ライムライト」で初の主演を果たした。「5万回斬られた男」の異名で知られた。04年に日本アカデミー賞協会特別賞を受賞したそうです。5万回も斬られましたが、ご自身の往生際はいさぎよかったと感じました。

一般に斬られ役は刀を振り下ろされたあと、右に行ったり左に行ったりしてよろめいた揚げ句、さんざんもったいをつけてバサッと斃れ込みます。これぞ見せ場だからです。しかし現実に斬られた人はこういう死に方をするのかどうかと考えると答えはたぶん否でしょう。要は生と死のはざまで意識を失ってあるいはもだえて苦しむ姿をどう見せるかです。だからと言って往生際があまりに良すぎるとなるとドラマというものが成立しません。バッチリお化粧をした女優がいまわのきわに真犯人について訥々と語ったり、自分の半生について長々と回想し、駆けつけた親族に最後に一言「ありがとう」とお礼を言ってこときれたりするというのはドラマならではのことなのだろうと思います。大概は前後不覚になって、意識は朦朧、昏睡状態になって昇天するはずです。

 「斬られ役往生際が悪すぎる」

 

17 「ライバルの訃報を聞いてひとり酒」(平成30年12月22日)

 

谷村新司さんの「陽はまた昇る」という名曲をご存じでしょうか。歌詞に「あの人に教えられた無言の優しさに いまさらながら涙こぼれて酔いつぶれたそんな夜」とあります。私はこのフレーズが好きです。

 Aさんは会社で私の1年先輩でしたが、こと笑いに関しては永遠のライバルでもありました。私はAさんへの敬意を込めて自分のことを「A派閥の領袖」と勝手に名乗っていたほどです。

2011年11月25日、三島由紀夫自衛隊市ケ谷駐屯地で割腹自殺した日である「憂国忌」にAさんの訃報が届きました。社内の一斉メールでした。同僚の女性Oさんが「Aさんが死んだ」と声を上げました。数日後、社内の張り出しで死因が腎がんだったと知りました。

脳の難病「もやもや病」を抱えていることについてはAさん自身から聞いていました。「医師に体力があるうちに手術するよう勧められている」とのことでした。しかしそれがもとで内臓の手術ができなくなっていたのです。それをほのめかす内容のはがきをご長男からもらったのはAさんの死のひと月ほど前でした。「父は日曜夕方の『笑点』を見るのを楽しみにしています。越智さんの年賀状を病床の父に見せると笑ってくれました」と書き添えてありました。不吉な予感がしました。私はもしや?と思いました。「これはもうよっぽど危ないのかもしれない」……。

訃報が入った日の夜、「お父さんの大好きだった人が亡くなったんだって」と言いながらバラエティー番組を見て笑っている妻と娘の後ろで、私はビールをあおりながら忍び泣きをしていました。

葬儀は鎌倉でありました。私は弔電を打っただけで出向きませんでした。理由はただ一つ、会いたくない人が必ず来るからでした。

数年後の大雨の日、数人と連れだって鎌倉にあるAさんの墓地を訪ねました。Aさんのお墓の斜め前に、日本ハム元監督でテレビでも辛口批評が評判だった大沢親分こと大沢啓二さんのお墓がありました。「あーあ、Aさん、大沢親分に一生頭が上がらないわ……」と私は独り言を言ってしまいました。

ライバルというのは自分にとって車の両輪のようなものかもしれません。向こうはライバルと思っていなくても、気がつけば自分にとっては生きる糧、エネルギーになっているのだと思います。それを突然亡くしたときに自分が受ける喪失感、虚無感、空虚感は他人には計り知れないものがあります。邪魔だ、お節介だ、目障りだ、目の上のたんこぶだなどとうっとうしく思うライバルこそがじつは自分に一番必要な存在なのかもしれません。

「ライバルの訃報を聞いてひとり酒」

 

18 「名作の分かっちゃいるがここで泣く」(令和2年6月12日)

 

 「ぼやき川柳」が第一~第三金曜日午後11時台の「ラジオ深夜便」に移ったのは2019年4月5日でした。それまでは約100句が読み上げられて、6句前後が大賞に選ばれていましたが、放送時間が短くなってお題は二つから一つに減り、50句弱しか読み上げられなくなりました。大賞も3句だけになったのです。がぜん競争率が上がって、私自身も読まれること自体が難しくなりました。放送が深夜になったことで聴取者にも変化が起きました。「かんさい土曜ほっとタイム」で常連だった人が何人か離脱していってしまったのです。もちろん代わりに新規参入を果たしたリスナーもいました。良くなったことは大賞を獲ると、三カ月後に月刊誌「ラジオ深夜便」に大西先生の寸評とともに載るようになったことと、聴き逃しサービス「らじる☆らじる」で放送翌日の午前5時から1週間聴くことができるようになったことです。

こうして私は3カ月に1回入選すれば良い方というていたらくが続くようになりました。ボツの山はますます大きくなりました。もう大賞どころではありません。それはもう夢の夢でした。「3カ月に1回読まれるくらいでは駄目だ。自称・川柳作家の沽券にかかわる。これを契機にもうやめてしまおうか。いい年こいて俺は何をやっているんだ」と何度も考えました。「たかが川柳ではないか……」。それは長い暗黒時代、暗いトンネルでした。私には負け犬根性が染みついていきました。

1年2カ月がたちました。とつぜん私に一条の光明が見えたのは2020年6月12日でした。ラジオ深夜便に移行後、初めての大賞を獲得したのです。前にも書きましたように、大賞を獲ると、ほぼ3カ月後に発行される月刊誌「ラジオ深夜便」に大西先生の寸評とともに掲載されるという栄誉に浴することができます。ようやくそれが実現したのです。私はのどから手が出るほど欲しかった「タイトル」を手に入れたのでした。ラジオで音として全国に流れると、その一瞬だけ空気が緊張しているような快感が得られるものですが、文字として残るというのもこれまた格別のものがあります。自分が趣味としてプリンターで印字して紙に残すことと、高名な先生に選んでもらって全国の書店で売られる雑誌に載ることはまったく似て非なるものです。私はNHKサービスセンターから送ってもらった掲載誌では飽き足らず、同じ掲載誌を本屋に行って自腹でもう1冊買いました。また近所のスーパーのレジ近くで売られている掲載誌を携帯のカメラで隠し撮りすることまでしてしまいました。これが私にとっての完成形、集大成でした。そうしたかったのです。ようやく実現した通算18回目の大賞受賞。お題は「ドラマ」でした。大西先生は放送中のコメントで「これ、ホントですよね。何回か見てええっと思うけど、やっぱりそのぐっと来るところは変わらないというね……」とおっしゃり、中村宏アナは「人情ものの落語、何回聴いてもおんなじところでほろっと来るんです」と応じ、大西先生が「やっぱりおんなじところで可笑しいしね」と締めました。

私は小津安二郎監督の世界的傑作「東京物語」の一場面を思い出しながらこの句を作りました。戦争未亡人となった次男の嫁(原節子)に義父である笠智衆が「貴女ももう再婚してもらっていいのだよ」と言います。そこで原節子が「いいえ、私、ずるいんです」と答える名場面です。私は何度も「東京物語」を見てきましたが、この場面になると必ずボロボロ大粒の涙を流します。ストーリーはもう重々分かっているのにそんな自分に酔っているのです。この涙は一種のカタルシスであり、私のナルシシズムであろうと自覚しています。大西先生もこの句が掲載された「ラジオ深夜便」10月号の寸評でこう書いてくださいました。「あれって不思議ですよね、何度も見て分かっているはずなのに泣けてくる。そんな自分自身にも感動したりして」

「名作の分かっちゃいるがここで泣く」

冠句の会で「もしかして貴方が?!」

 ぼやき川柳でラジオに出たりしていると驚くようなことがたまにある。最初の驚きは二〇一六年秋ごろだったか、「冠句」の集まりで起きた。

冠句とは五七五の上五をあらかじめ決めておいて、残り中七、下五を個々人が付けてその出来栄えを競い合う遊びだ。私は一九九九年ごろから大阪の職場仲間の冠句の会に入って楽しんでいた。

冠句のルールの説明を少しすると、席亭(取りまとめ役)がたとえば「だらしない」というお題を出すとする。するとこの上五に続く中七下五を句会に集まったメンバーが出し合うのだ。たとえば「だらしない妻の化粧と太鼓腹」(落ちこぼれ)という作品を私が作ったとする。それを席亭のもとに持っていく。席亭は落ちこぼれという名前を伏せて紙に書く。他のメンバーの作品も席亭が名前を伏せてアトランダムに書いていく。句には番号が振ってあるだけだ。作品が一枚の紙に集まると、それをコピー。どの句の出来栄えがいいかをそれぞれが投票し合って、句会の出席者は自分が選んだ句を読み上げ、選ばれた句の作者はその場で名乗り出る。その後、席亭が集計して開票するシステムだ。もちろん自分の句を選ぶことは禁じ手だ。即刻退場となる。非常に民主的で恣意のない選句となる。選ぶ側は天地人45678910と10位まで順位をつけて選び、席亭に提出する。席亭は天位を10点、地位を5点、人位を3点、残り4位以下を1点として集計する。何人に選ばれたか、総得点はいくつかで大賞句、次点句などを決めて最後に発表。みんなで講評し合って表彰をする……。宴会の席にもなっているので酒が回った席亭が混乱して句会の場が大阪弁で言うところの「わや」になることもしばしばだ。簡単に言うとこんな遊びだ。

長くなってしまったが、その冠句の会に出たときにたまたま選ばれた私の句があったので、読み上げられた直後に「越智子惚でございます」と私が名乗り出ると、出席者の一人のご老人が、「あの~『兵庫県の落ちこぼれさん』というのはもしかして貴方ですか?」と尋ねられた。私は驚いた。「はい。私がその落ちこぼれです」。自分の名前が少なくとも関西で一部の人に知られていることを知った瞬間だった。「初めてです。自分のペンネームを知っている人にお会いしたのは」と、のけぞりながら答えた。

まあ大袈裟にいうほどのことでもない。身近にも「ぼやき川柳」を聞いている人がいたというだけのことだった。

三度目の公開放送では大賞ならず

 2年3カ月ぶりにNHK大阪ホールで公開生放送があった。二〇一七年五月二十七日のことだ。この日、私は大賞になれなかった。自宅のラジオに予約録音を準備して出かけていったが、前回の公開録音で大賞に輝いてしまったこともあって、最大の目標を達成して次の目標を見失ってしまった五輪の金メダリストのようになっていた。お題は「ためらう」ともうひとつあった。前回同様、家族も名前を借りて往復はがきで入場整理券券をゲットし、妻と会場に乗り込んだのだが、いまひとつ緊張感が足りなかった。ゲスト・堀内孝雄さんの歌に聴き惚れていたらもう3時。「ぼやき川柳アワー」が始まった。全国から応募があった木曜日締め切りの50句がまず読み上げられ、曲に入ったところで「この会場から選ばれた人を言います」と佐藤アナ。ここで私の名前が呼ばれた。前回は公開録音だったので後で修正も利くかと思ったが、今日は生放送。「いい加減なことを発言すると放送事故になる」と肝に銘じた。私の番が来た。選ばれたのはお題「ためらう」で、「女子会に静かに呑めと言う勇気」という作品。佐藤アナが読み上げた瞬間、会場のウケが良くないのが肌で感じられた。笑いが少ない。一瞬で自分が浮いていることに気づいた。空気がビミョーとはこのことだった。ツカミですべってしまう売れない漫才師の気持ちがよく分かった。もう取り返しはつかない。そのなかでも聞かれるままに句の説明をし、受け答えをしなければならない。「大西先生、どうですか。この句は?」などと佐藤アナが必死で盛り上げようとしてくれている。返答に困ったのか、大西先生が会場の私に向かって尋ねた。「これは想像(で作った句)ですか?」。ほぼ図星なので顔がひきつるのが分かる。どう答えたものかと思った。「以前の放送で、佐藤アナが女子会が二つも行われている居酒屋に入ったらもううるさくて仕方がなかったとおっしゃっていたことを思い出して作りました……」。動揺して上ずった私の声は生放送で全国に流れた。負けたと思った。当然、大賞句には入らなかった。終了後、すごすごと谷町4丁目駅へ向かった。おけら街道だった。家に帰って録音を聴き直す気にもなれなかった。

番組終了の衝撃

 

 もうすぐ平成が終わろうとする2019年2月23日、「3月16日をもっての番組を終了すること」が佐藤アナから発表された。よくよく聞いてみると「かんさい土曜ほっとタイム」という番組自体が終了することになり、1コーナーである「ぼやき川柳アワー」は4月からラジオ深夜便関西発ラジオ深夜便(第1、2、3金曜日)の午後11時すぎに受け継がれていくことになったようだった。つまり大西泰世先生は川柳番組を続けるが、佐藤アナは番組を離れるという結論。全国に衝撃が走った。新聞で言えば号外、テレビで言えば臨時ニュースのテロップだ。放送直後から「番組をやめないでほしい」という要望が各地から寄せられた。NHKの視聴者センター宛てにも佐藤アナに続けてほしいと懇願する声がメールや電話が殺到したという。最終回放送までに総計七四七通あり、番組終了に「賛成」する意見はわずかに一通だけだったと佐藤アナが放送で述べている。「プロ野球を生中継して聴取率を上げようとするのか」「佐藤アナの健康問題なら引き下がりますが……」など、ありとあらゆる揣摩臆測が飛び交ったが、その真相は「七〇歳を迎えるので後進に道を譲ろうとしたところ、番組自体が終わってしまうことになった」ところにあるのだと佐藤アナは番組で説明している。「土曜ほっと」ファンがこんなに多くいたことにNHK幹部も改めて驚いたのではなかったか。

ラジオにおいて、鼎談というか3人であれこれしゃべるスタイルが最高の人数だと思う。たとえば4人だとがやがやしてしまうし、もし2人だと一対一となって息が詰まる雰囲気になる。万人に好かれる佐藤アナとマイナスのことばを決して口にしない大西先生と朗らかな女性キャスターという「天の配剤」がなければここまで人気は続かなかったことだろう。

全国の「土曜ほっとロス」は令和になった今も続いている気がしてならない。

 

用意したもの

 川柳ほど安上がりな趣味はないのではないか。碁会所に通う囲碁や将棋と同じくらい安価な趣味だ。基本的には紙と鉛筆さえあればいい。俳句のように季語辞典が要るわけでもない。吟行に行かなくても川柳は作ることができる。極端な話、人は棺桶に片足を突っ込んでいても、(いまわのきわでも)川柳だけは作れるのだ。

そして「川柳作家」の肩書だが、資格審査はない。免許も要らない。そう名乗った瞬間から誰でも川柳作家になることができる。

私の場合はラジオ川柳から入ったのでラジオだけが最初に必要だった。けれど放送のたびに家にいるわけにもいかないので録音できるラジオを買い直した。ケンウッドのラジカセだった。1万数千円の初期投資をしたことになる。デバイスはSDカード。USBメモリーでも録音ができる機種だ。あとは出歩いているとき、とくに散歩しているときに川柳は名句(迷句)が思い浮かぶ傾向にあるので、携帯電話のメモ帳・メモ機能を活用した。自宅では紙の国語辞典も手元にあった方がいいだろう。ブックオフなど古書店に行くと古くても良い辞書が安く売られている。アマゾンで取り寄せるのもいい。もし電子辞書をお持ちであるならそれも強力な武器になる。あとはパソコンの検索サイトで類語辞典のようなサイトを開くことができるようにしておけばアイデアをひねり出すチャンスになる。もし入選してラジオで読まれたときはラジオ録音を再生し、スマホの「ボイスメモ」で音を録音して持ち歩いた。電車の中でイヤホンをして、自分の句が読まれた時の録音を再生して聴くのも「いとおかし」である。佐藤アナの読み上げる声、大西先生の笑い声、女性キャスターの反応、大西先生の講評などが生々しくよみがえる。わずか十数秒であってもその空気感が楽しい。まるでそこだけ空気が緊張しているかのように聞こえるから不思議である。よもや大賞でも獲ろうものならそこも録音を再生してスマホに再度録音した。「それでは今週のぼやき川柳大賞の発表です」と佐藤アナが高らかに宣言し、ファンファーレが鳴る。全国のリスナーが固唾をのむような気がする瞬間だ。「兵庫県の落ちこぼれさん」という声を聴くと、名状しがたい悦楽が全身に満ちあふれる。釣りに行って竿先にぐぐっと引きが来た瞬間のような歓喜がみなぎるのである。