NHK「ぼやき川柳大賞」を獲る方法

兵庫県のペンネーム落ちこぼれがボツ続きの体験を赤裸々に綴ります。

NHK神戸でリベンジの大賞

  二〇一八年六月二十三日にはNHK神戸放送局1階「トアステーション」でぼやき川柳のつどいがあった。兵庫県民としてこのチャンスを逃す手はない。お題は「サイン」「輝く」であった。神戸放送局は大阪ホールのように千人以上も入ることができない。200平方メートルくらいしかないので、コロナ禍のときは人気の「ジャズライブ神戸」が中止になったほどだ。

予告の放送で、応募多数の場合は抽選となるという説明があったので私は手段を選ばず遮二無二応募することにした。家族4人の名前を使って入場整理券をもらうために奔走した。往復はがきを出す日やポストを変えて当たるよう励んだ。結果的に娘のはがきが当たり、入場できることになった。

 さて当日。携帯電話のメモ帳に2句を用意して臨んだ。一句目はお題「サイン」で、「サインした自分史贈り友が減る」。二句目はお題「輝く」で「オバチャンが我が物顔のレディースデー」。午後0時半に神戸放送局に着くと、佐藤アナの下読みというかしゃべりの練習が始まっていた。本番までに何をしゃべるか総ざらえしている様子だった。キャスターは奥野史子さん。二人で本番を想定して会話も始めていた。私は係員にここに立ってお待ちくださいと言われて列の中にいた。左手に現在放送中のテレビ各局のモニターがあった。さすが放送局だなと感心した。しかし職業柄、一つ気になったことがあった。BS放送のテレビ画面の下に「衛生放送」と誤字のシールが貼り付けてあったことだ。「ここで間違っちゃあいかんだろう」と苦笑した。

閑話休題松山商との延長十八回引き分け再試合を演じた三沢高の太田幸司さんがゲスト、さらにタレントのかみじょうたけしさんが九回表に4-10から9-10まで追いついた2009年夏の甲子園日本文理中京大中京の決勝の再現をしてみせた。僕らの世代は一九六九年八月の太田幸司を覚えている。時代のヒーローだ。

その日の「かんさい土曜ほっとタイム」の雑談はサッカーのワールドカップ、ロシア大会1次予選で日本がコロンビアに勝ったことで持ちきりだった。ヘディングで決勝点を奪った大迫勇也の「半端ない」がにわかに流行語になっていた。

私は「きょうはラジオに出演する日」と思っていた。緊張して前の晩も深く眠れなかった。夢にまで川柳大会の生放送が出てきた。もともと冷え症なのだが、いつにも増して指先が冷たく、氷のようだった。脈も速かった。会場に入るときに投句用紙と鉛筆が配られた。この会場で新たに川柳を考える余裕などない。私は冷たくなった手で用意してあった二句を書いた。きれいな字で書かないとラジオに出られないと思って、書道五段の腕前を意識して書いた。「回収します」と言って投句用紙を集めているスタッフの住谷明日香、坪尾明音両アナウンサーの可愛いこと。「こんなに小顔できれいな人でないとテレビには出られないんだ。僕はやっぱりラジオ止まりだ」と思った。おじさんがあまりにジロジロ見たせいか、投句用紙を受け取りながら住谷アナが少し恥じらうような表情を見せたのが印象的だった。

ラジオ出演を覚悟して神戸に来た以上、本当に実現するか否かが分かる瞬間が一番緊張した。午後三時前、「ぼやき川柳アワー」が始まるにあたり、「会場に来て投句した人で大西先生に句が選ばれた人」の発表があった。まず佐藤アナが5人くらいの名前を呼び、「どこにおられますか」と挙手を促した。ところがその中に私の名前がなかった。放送ではいつも佐藤アナが読んでくれている僕としては大変なショックを受けた。「今日は、これは駄目かもしれない」と思うと、心臓が口から飛び出るくらいバクバクし始めて顔に血がカーッとのぼるのが分かった。続いて奥野さんから5人の名前が発表された。その中に「兵庫県の落ちこぼれさん」があった。「はい!」と元気よく手を挙げたのがおかしかったのか、僕のペンネームがおかしかったのか、背後の女性がケラケラと笑った。

いざ放送本番。大阪ホールと違ってスクリーンに句が映し出されるという演出はなかった。まるまる音だけで入選作の発表が続いた。私は二句のうち、いったいどちらが選ばれたのか分からないので、こちらの句だったらマイクに向かってこう言おう、逆にこちらの句だったらこう言おうとコメントを考えるのに必死で、ほかの人の入選作を味わって笑う余裕などなかった。大西先生は和服にウイッグ姿で、生放送に浮足立つこともなく普段通りの振る舞いをおられた。「大物だ。すごい人だ。到底かなわない」と思った。さていよいよラジオ出演が近づいてきた。会社の知り合いにショートメールで「今からNHKラジオに出ます」とだけ送った。

奥野史子さんの口から「次は兵庫県の落ちこぼれさん」と呼び出しがかかった。佐藤アナが「どちらにおられますか」と合いの手を入れる。私が挙手をして、例によってまた立ち上がってしまう。奥野さんが「拝見すると落ちこぼれたっていう感じの人ではないですね」と言う。続いて「いきますよ」と言い、「サインした自分史贈り友が減る」と読み上げる。さらにもう一度これを繰り返す。このあたりで句の意味がのみ込めたのか、会場から爆笑が起きた。後ろからマイクを持った女性スタッフが近づいてきた。「どういう気持ちで作りましたか?」とステージから佐藤アナが問いかける。

「私は二十八歳で病気をして入院をしたんですけど、同じ部屋の人と本を作ろうということになりまして、退院後に自費出版をしたんです。ポエムの。いざ出来上がって知り合いの人とかに50冊くらいですかね、サインして贈ったんです。ところが迷惑だったのか返事が来ない人がいたりしまして(ここで会場が大笑い)友だちが減りました。もし自分史だったらもっと切実なんじゃないかと思ってこの句を作りました。家にあと250冊ぐらい家にあるのですが、自分が死んだときにお葬式で配ろうかと思っています」。緊張して舌がカラカラになってうまくしゃべれなかった。ここで佐藤アナが大西先生に尋ねる。「どうですか。大西先生」。大西先生は「お葬式で配るのもやめた方がええんちゃいますか? 迷惑だから」(ここでドカンと笑いが起きる)

さてぼやき川柳大賞の時刻になった。私は会場や先生の反応から「もしかしていけるかも」というほのかな確信があった。はたして「ぼやき川柳大賞は会場からの兵庫県の落ちこぼれさん」とコールがあって、もう一度あの句が読み上げられた。ここでもまた笑いが起きた。番組の最終盤、エンディングの押尾コータローの「アゲイン」のギターが流れる中で、「大賞受賞の喜びをどうぞ」とまたマイクを向けられた。私は準備していた通りにしゃべった。「休みを取って来た甲斐がありました。感動しました。半端ない感動を得ました」。ここでまた会場に笑いが広がった。私は有頂天だった。ただし、手の指先は冷たく、わきの下には汗をかいていた。

番組が終了した。「大賞受賞者はステージ前にお越しください」と言われたので、出て行くと大西先生が記念品を持って立っておられた。僕にとって「雲の上の人」なのでどう声を発していいか分からない。先生から「きょうはお休みを取って来られて、良かったですね」と言われた。握手したあと、「いやあ、もう緊張してしまって。手が冷たいです」と僕が言うと、先生が「ほんと、冷たいですね」と笑われた。スタッフの皆さんにもお礼を言って神戸放送局を辞した。不思議なのは外へ出ても誰も僕を振り返らないことだった。何事もなかったかのようにそれぞれが帰途についている。興奮冷めやらぬのは自分だけ。みんなすっかり日常に戻っている。もちろんサインを求められることもなかった。私は阪急電鉄で帰宅したが、家に着いてもまだ心臓の高鳴りを感じていた。通算119度目の入選で15回目の大賞だった。いつものようにリボンに大賞句を書いて優勝カップにぶら下げた。

そのころ、会社の同僚のYさんから「ラジオに出ましたね。聴いちゃいました」とメールが届いた。「しまった! 聴かれてしまった!」と思ったが、予定調和のような話で「一人でも聴いてくれている人がいて良かった」が本音だった。入社が同期のA君も「あの番組に聴き逃しサービスはないのかね」とメールをくれた。そのころはまだ聴き逃しサービスに「ぼや川」は入っていなかった。今は放送翌朝の午前5時から1週間、「ラジオ深夜便」の聴き逃しサービスで聴くことができるようになっている。

さて2020年のコロナ禍で公開放送は行えなくなり、公開放送での大賞受賞はとうとうこれが最後となった。