NHK「ぼやき川柳大賞」を獲る方法

兵庫県のペンネーム「落ちこぼれ」がボツ続きの体験を赤裸々に綴ります。

「ぼやき川柳」の年表

NHKラジオ深夜便「ぼやき川柳」にまつわる出来事を年表にしてみました。

1948年 佐藤誠アナウンサーが大阪府吹田市に生まれる

  49年 大西泰世先生が兵庫県姫路市に生まれる。高校はデザイン科に学び、グラフィックデザインのアルバイトなどをした

  71年 佐藤アナがNHKに入局。以後、北海道や山梨へ転任。東京勤務はなかった

  75年 大西先生が川柳と出会う。ある新聞記者に俳句を川柳を見せられ、「どっちが面白い?」と問われて「川柳」と答えたという

  83年 大西先生が第1句集「椿事」(砂子屋書房)を出版

  89年 大西先生が第2句集「世紀末の小町」(砂子屋書房)を出版

  88年 大西先生が姫路市でスナック「文庫ヤ」を開く。カウンター7席。午後7  時開店

  90年 大西先生が神戸山手女子短大国文学科で非常勤講師を始める。テーマは  「『川柳する』こと『生きる』こと」。同短大の「実作者による文芸講座」に関わった小説家・軒上泊さんが大西先生の川柳のファンだったことによる。スナックママが短大講師と話題になる

  93年4月 NHKラジオ第1で東京発の「土曜サロン」が始まる

  93年 「短歌 俳句 川柳101年」(新潮10月臨時増刊)の川柳を大西先生  が担当する

  94年 大西先生が関西学院大社会学部で「川柳史」を教える

  95年1月 阪神・淡路大震災発生

  95年4月 佐藤アナが阪神大震災の被災地を巡る番組を1年間担当。被災者に方言で話しかけることの大切さを知る。ちょうどこのころNHKは「放送は原則標準語。方言の使用は慎重に」としてきた基準を「原則共通語。必要により方言を用いる」と方針変更。佐藤アナの関西弁が許容されることになり、関西発「ぼやき川柳」成功の伏線となる

  96年4月 「土曜サロン」が最終土曜だけ大阪発となる。番組名は「関西発土曜サロン」。同時にリスナーにお便りで「ぼやき」を募集する「ぼやきアワー」が始まる

  96年 大西先生が「こいびとになってくださいますか」(立風書房)を出版。宮城県中新田町の第1回俳句大賞に選ばれる(川柳大賞ではないところに注目)

     その後「ぼやきアワー」を「お笑いぼやきアワー」にリニューアルし、「笑えるぼやき」をお便りで募集するようにしたが聴取率が伸びなかった

      佐藤アナが姫路でスナックのママをしている新進気鋭の川柳作家、大西先生を訪ねて「ぼやき川柳」という新コーナーの選者になってくれないかと相談したのがこの頃。先生は自分の作風と正反対だったので戸惑うが、引き受けることにする

  97年4月 ぼやきを五七五の川柳に落とし込んで投句する「ぼやき川柳アワー」が始まる。全国から投句が殺到するようになる

2000年4月 「土曜サロン」が「土曜ほっとタイム」に名称変更

  00年 佐藤アナが「大阪弁スピリッツ」(葉文館出版)を出版

  04年4月 毎週土曜日、全編が大阪発の「かんさい土曜ほっとタイム」になる

  07年 「テレビdeぼやき川柳」放送(金曜日午後5時15分から40分まで)

  07年5月 「ぼやき川柳」開始10周年を記念した公開生放送がNHK大阪ホールで行われる

  08年3月 嘱託職専門委員を経て佐藤アナが定年を迎える。神戸松蔭女子学院大教授に

      「大西泰世句集」(砂子屋書房)が出版される

  09年4月 毎月第3週にBKプラザオープンスタジオで公開放送が始まる

  11年2月 ぼやき川柳アワー15周年を記念して、07年以来となる「ぼやき川柳アワーのつどい」と題されたリスナーを招待した公開生放送がNHK大阪ホールで行われる。以後も年1、2回程度行われる

  12年3月 大西先生がパリの国立東洋言語文化大に招かれて川柳について講義

  16年 大西先生が「川柳へようこそ~作り方から味わい方まで~」(H・U・N企画)を出版

  19年2月 3月16日をもって「かんさい土曜ほっとタイム」が終了することが発表される。終了反対を申し出るリスナーからの便りが番組に殺到する

  19年4月 ぼやき川柳が第1・2・3金曜夜11時台の「ラジオ深夜便」に移行する。大賞を受賞すると月刊誌「ラジオ深夜便」に載ることになった