NHK「ぼやき川柳大賞」を獲る方法

兵庫県のペンネーム「落ちこぼれ」がボツ続きの体験を赤裸々に綴ります。

大西泰世先生のプロフィール

 ここで大西泰世先生はどういう人なのかについて書く。1949年兵庫県姫路市生まれ。兵庫県立姫路工業高校デザイン科卒業。兵庫県立大学非常勤講師。NHK文化センターなどの講師。全日本エコロジーほか選者。26歳から川柳を始めた。

「現代川柳ハンドブック」(日本川柳ペンクラブ編、雄山閣出版、平成10年11月5日初版)から引用すると、女性川柳で活躍が期待される戦後世代の一人として、句集「椿事」(1983年、砂子屋書房)が第一作。第二句集「世紀末の小町」(砂子屋書房)を平成元年(1989年)5月に発表。その解説で立松和平は「彼女はペシミストではない。もっと何か大きなものをのぞいてしまい、それに身をまかせているような、大胆な表現を感じるのである」と書いているとあります。鋭い感性から生まれる心象風景が、ひたむきに迫ってくる作品集。「現身へほろりと溶ける沈丁花」「病むことも覚えて花の衣脱ぐ」の2句が紹介されている。(「須田尚美」解説)また新潮10月臨時増刊「短歌俳句川柳101年」(1993年、新潮社)では川柳の編集協力者を務めたとあります。そのほか「こいびとになってくださいますか」(立風書房、1995年)、「大西泰世句集」(砂子屋書房、2008年)、「川柳へようこそ―作り方から味わい方まで―」(H・U・N企画、2016年)を発表している。

2012年4月25日付の大阪読売新聞朝刊に次のような記事が載っている。「Naniwaなう」 大西泰世さん(62) ◇大阪市北区 
 ◆パリに招かれ魅力伝える 
 「文化には国境はない。川柳が少しでも世界に広まってほしい」。3月、フランス・パリの国立東洋言語文化大に招かれ、川柳について講演した。
 海外では俳句は広がりつつあり、現地の言語で創作を楽しむ人も多い。しかし、同じ五・七・五の定型詩でありながら、あまり知られていない川柳についての知識を深めようと、同大学日本語学部から、依頼があった。
 当日は、日本文化の研究者や学生が集まった。川柳の250年の歴史に触れながら、「俳句には季語があり、川柳にはないとか、俳句は風景を詠み、川柳は人事を詠むと言われるが、今は明確な区別はない。その境界はあいまいになっている」と説明。「より身近な話題を自由に詠めるのが川柳の魅力」と強調した。
 「句をフランス語に翻訳してもらうのが大変だったが、正岡子規の研究をしている学生もおり、みんな真剣に聞いてくれた。自分もしっかり創作に励まなければとの思いを強くした」。府内の教室などで川柳の指導をしながら、句作に打ち込む毎日だ。
(高部真一)
 
 写真=フランスで講演する大西さん(中央、大西さん提供)

 

 大西先生の句には次のような名作がある。

 生涯の恋の数ほど曼珠沙華
 身を反らすたびにあやめの咲きにけり
 身のうちの最高音をみいだしぬ
 祈らねば獣語を放つかも知れず
 火柱の中にわたしの駅がある
 そして以下は「川柳へようこそ―作り方から味わい方まで―」大西泰世 (H・U・N企画)から引用する。

なにほどの快楽(けらく)か大樹揺れやまず

 つぎの世へ転がしてゆく青林檎

 一枚の畳を照らす紙の鶴

 ゆびきりの指を離せば山青し

 

大西先生のプロフィールを2018年3月16日の「かんさい土曜ほっとタイム」最終回の2時台「ほっと人物ファイル」から拾うと……。

26歳から川柳を始める。1985年に兵庫県姫路市でスナックを開業、のちに同県赤穂市へ移った。関西学院大学兵庫県立大で講師。83年の「椿事」が第一句集。第三句集「こいびとになってくださいますか」で1996年、第一回中新田俳句大賞を受賞。宮城県加美郡中新田町が創設した賞で、現在は加美俳句大賞になっている。この賞の選考委員の俳人石原八束氏は「死からはじまってエロスの世界を引き出す。迫力がある」と評した。
 二歳で父を亡くし、「溺愛(できあい)してくれた」祖父も十一歳のとき、亡くなる。死をイメージした句が多いのは、生い立ちの影響かもしれない。
 一九九〇年、神戸山手女子短大の講師になり、九四年から関西学院大でも講師を務め「川柳史」などを教えている。学生には「将来、失意や挫折を味わったとき、きっと川柳をつくることがあなたの支えになりますよ」と句作りをすすめると1996年10月7日の朝日新聞夕刊にある。

 

「短歌俳句川柳101年」が名著。評論家・吉本隆明氏と対談。奥野史子さんによるとそのころは女優の山口智子に似ていた。大西先生はもともと自分を表現するのは美術だと思っていた。デザインに興味があった。美術鑑賞も好き。まさか文字で自分を表現することになるとは……と感慨深げだ。俳句と川柳のどちらが面白いかと問われて魅せられたのが川柳の方だった。川柳は心の奥をさらけ出す表現だった。「恋文をひらく速さで蝶が湧く」の句は教科書にも載った。若いときは川柳がお笑いだと思われるのが癪だった。少し肩肘を張っていた。川柳を作る過程が好きで、活字になることには興味がなかった。川柳は湧くのではなくひねり出す感覚だ。自分がまさかサービス業をするとは思いも寄らなかった。スナックで暇なときに川柳を作っていた。そのころ大学講師にという話があった。貴女みたいに愛想のない人がと友だちに笑われた。スナックも愛想のない店だった。無愛想だった。佐藤アナに言わせると「昼は大学講師、夜はスナックのママ」の時代だった。

さてNHK「ぼやき川柳」の選者をお願いするにあたり、佐藤アナが赤穂まで大西先生を訪ねてきたことがあった。「当時、新進気鋭の川柳作家だった。こんなん引き受けてくれはるやろかとおそるおそる訪ねた」と佐藤アナ。大西先生は「最初、タイトルが『ぼやき川柳』と聞いて『どんなんかな?』と思った。あまりに自分が目指してきたものとかけ離れていると思った」と述懐している。「年を重ねるといろいろなものが見えてくる。その年にならないとわからない。平凡な句と思っていた先人の句が面白くなってきた。ぼやき川柳のおかげだ」と大西先生。

 赤穂では佐藤アナに大西先生が「お寿司屋さんでお寿司をごちそうしてくれはった」という。大西先生は偏食。生魚が苦手。焼き鳥も苦手。主に召し上がるのはおでん。そのあと先生のスナックへ行って佐藤アナがカラオケでサザンオールスターズを歌った。「もう帰る電車ありません」と言われてタクシーをとばして相生の駅から新幹線で帰ることにななった。大西先生はフランスで川柳の講義をしたこともある。川柳は短詩型文芸。日本語は主語を入れなくても良いが、外国語には「私が」「あなたが」が必要。ちょっと不自由に感じた。川柳は空間の文芸。五七五は世界最短詩型だ。大西先生の代表句に次のような句がある。

 「生涯の恋の数ほど曼珠沙華

「身を反らすたびにあやめの咲きにけり」

「火柱の中に私の駅がある」

 大西先生はこれらの句について、「一句の中に何かの気配みたいなものを詠めたらいいと思っていた」「よくエロチックな句といわれた」

「川柳を作る過程でたまに言葉が向こうからやってくる感じがある。なんとか冥利に尽きる感覚がある」と言う。先生は寝転がったりして句をつくる。だらしない……。ぐずぐずしながら作る。句をつくるために風景を見に行ったり、辞書をひくとかではない。見た風景なら、絵描きなら、詩人なら、音楽だったらこの人というふうに一ジャンル一人で、感じるものを大事にする。まずは題詠を核にして考える。

川柳を作るにあたって、先生からのアドバイスは……。そのお題を自分の生きてきたことと照らし合わせて、結びつけてみる。海なら海。自分にとって海ってどういうものだろう。一般ウケ、普遍性があるだろうとは考えない。大会ウケは狙わない。大西先生は川柳大会でボツになった句を句集にしている。川柳大会に行っても自分の句が入選したことはあまりない。先生の句はポエムを目指したものだ。「番組をやって、全国でご高齢のお一人暮らしの人が多いことを知った。自分にボキャブラリーがないなどは関係ない。生きてこられた年数が辞書のページ数みたいなもの。みんな心に沿う言葉を持っているはず。ただ笑うだけでは済まない人生の深みの句がある。「ぼやき川柳」の名句を集めたらそれは「生きるバイブル」になる。