NHK「ぼやき川柳大賞」を獲る方法

兵庫県のペンネーム「落ちこぼれ」がボツ続きの体験を赤裸々に綴ります。

大西先生の朝日新聞兵庫版の連載「川柳すること生きること」上・中・下

大西先生が書かれた文章が見つかりました。上・中・下と3回の連載です。

 

朝日新聞1991年1月9日付    朝刊         兵庫版    

川柳すること生きること:上 記・川柳作家 大西泰世 兵庫 

 

 コスモスの白へ連なる瞳かな 泰世
 姫路の川柳作家大西泰世さん(41)が、神戸山手女子短大の教壇に立って3カ月になる。講義に集う学生は12人。ネオン街のスナックママと娘のような学生との触れ合い、そして自分の生き方を大西さんがつづった。
 昨年10月4日、少し緊張しながら、元町にある神戸山手女子短期大学の門をくぐった。
 神戸市のデザイン賞を受けたという淡い水色の建物の内外に、光の束をパッとふりほどいたように眩(まぶ)しく、華やかな女子大生たちがいた。
 彼女たちは、あたりまえのことながらとても若く、きれいで、そして本人たちは多分気付いていないであろう青春の真っ只(ただ)中だった。
 出席簿を受け取って、案内して下さる先生と共に教室に入り、その先生に私のことを紹介していただいている間じゅう、私はずっと下を向いていた。
 生徒たちの視線が、すべて自分に注がれているのが感じられて顔が上げられないのだ。
 紹介が終わり、意を決して私は教壇の真ん中へ出て出席を取る。
 「マキ」「リエ」「リカ」などと、私たちの世代には無かった名前が続く。
 そういえば、生徒たちの親も、おそらく私と同じ団塊の世代といわれる年代なんだろうと感じられ、一人ひとりの子供に託した親の想(おも)いが、読み上げる名前からあふれてきそうな気がして、ていねいに出席簿にマルを付ける。
 数の上でいえば、生徒はたった12人だけれど、(ひとり欠席していたので)出席を取り終えてすべての生徒と対峙(たいじ)した時、「ああ、これはまったく二十四の瞳だ」と思った。
 壺井栄の小説の「二十四の瞳」に出てくるような貧しい村の小さな生徒たちではもちろんないけれど、彼女たちの「ひとみ」はすばらしく美しい。
 女子大生というと、とかく好奇心を持って世間ではいろいろと言われたりして、特にその時代の、いわゆる悪い意味での「女のコかたぎ」の代表みたいに思われていたりするのだが、目の前の彼女たちは、そんな世評には少しも染まらずに、秋の陽(ひ)の中で揺れている真っ白いコスモスの一群のように私には見えてきて、
 コスモスの白へ連なる瞳かな 泰世
 という句を、思わず詠んでしまったくらいだ。
 「しかし、しかしですよ、あなたがた」。私は川柳の歴史など黒板に書きながら心でつぶやいた。
 「これからの半年間、こっちだって生まれて初めての経験、裸になってあなたたちにぶつかっていく気なんだから、そちらさんにも少しずつ脱いでいっていただきますよ」とぶつぶつ言いながら、今夜のビールは最高にオイシイぞと思っていた。
       *      *      *
 おおにし・やすよ 姫路市生花店に生まれる。デザイン事務所、喫茶店経営、スナック勤めなどを経て、現在、姫路市福中町でスナック「文庫ヤ」を経営する。川柳と出合ったのは26歳。句集「椿事」「世紀末の小町」がある。去年10月から神戸山手女子短大の国文学科非常勤講師。週に1度の講義のテーマは「川柳すること生きること」


朝日新聞1991年1月10日付    朝刊         兵庫版           

川柳すること生きること:中 記・川柳作家 大西泰世 兵庫 

 ドアの向うの風がときどき逢いに来る 泰世
 「文庫ヤ」というスナックを始めてから2年半経(た)った。
 文庫本のような小さな店という意味で名付けたこの店で1日の3分の1を過ごしていることになる。
 最初から、ひとりでやれる範囲の店という条件で捜したので、カウンターだけ、7席のみという本当に小さな店だ。
 ひとりで、ということにこだわったのは、お客さんを待っている間に本を読んだり、句を作ったりする空間がどうしても欲しかったからで、このこだわりは大成功だった。
 開店は7時、(これもまわりの店から比べるとかなり遅い方だ)でもお客さんの出足はたいてい遅く、9時頃(ごろ)まで私ひとりということもよくあって、こういう時は本当に我が天下という思いがする。
 こんな調子でなんとなく1年半ほど過ぎたころ、ある方の紹介で神戸山手女子短期大学国文学科の非常勤講師に決まったとたん、今までとは様子が少し違ってきた。
 それまでの私の肩書き(?)は「川柳作家」だったのに、それからは必ず「スナックのママ」というのがくっつくのである。
 私としては、ずっと川柳をやってきた過程の中で、今はたまたまスナックをやっているというだけで、とりたてて「スナックのママ」というのを意識していなかったのだが、新聞の記事などで文字になっているのを見たりすると、つくづく「ああ、私は今、スナックのママをやっているんだなあ」などと変に納得してしまう。
 ほかの店のママにも、絵を描いたり俳句を作ったりするひとはいるのだが、「大学講師」というのがめずらしい、などと言われると「ふーん」と思って、まあ事実は事実なんだし、そういう書かれ方をしてもあまり気にしていない。
 まあ、この「講師」にはいいかげんなところがあって、なぜ講義を木曜日の3時限目にしたのかを明かせば、店はだいたい水曜日がヒマだから、木曜日にしておけば二日酔いになる可能性が少ないだろう、万が一、二日酔いになったとしてもお昼以降であれば這(は)ってでも行けるではないですか、などととんでもない思いつきから決めてしまうというていたらくである。
 こういうことがお客さんに知れると今度は「水曜日にママを酔わさずに帰してなるものか、木曜日は二日酔いで学校へ行かせよう」などと言って、水曜日に遅くまでガンバッテしまうお客さんが現れたりするから、もう大変。
 にくらしいけどにくめない、こんな愛すべきお客さんたちの間をすり抜けて、木曜日には学校にたどり着く。
 ドアの向うの風がときどき逢いに来る 泰世

 


朝日新聞1991年1月11日付    朝刊         兵庫版      

川柳すること生きること:下 記・川柳作家 大西泰世 兵庫 

 真っすぐに見よ1本の青い樹を 泰世
 講義の中で私は生徒たちに、よく句会をやってもらう。
 「べっぴん句会」と名付けたこの句会の作品は、なかなかの見ものである。
 一般の川柳の句会と同じ方法で、「兼題(あらかじめ発表しておく題のこと)」「席題(その場で出す題のこと)」をそれぞれ生徒に決めさせる。
 「女」なんてスゴイ題を、あどけない顔でしゃあしゃあと出されたりすると、こちらの方がびっくりしてしまう。
 でも、この題で若い彼女たちがどのような「女」を掴(つか)み取って見せてくれるのかと期待がふくらんでくる。
 「恋すれば女はいつも愛・戦士」「孫を抱く母のヒールはまだ高い」「口紅の数だけ顔を持っている」などなど、特に口紅の句なんかは生まれて初めて川柳を作った女子大生の句だとは思えないくらい「女」の本質に迫っているではないか。
 「風」という題では、「街角でつめたい風とまちぼうけ」「なびく髪いつもあなたを想ってる」「寒いねと風に言われた冬の朝」、そうそう「雨」という題では「すれ違う相合傘にあっかんべー」というのがありましたっけ。こんな発想の句は、おじさんおばさんたちの句会ではまずありませんね、本当に楽しい。
 それぞれの題に10代の彼女たちの、いろんな想(おも)いが交差して、句会はいつも心地よい熱気にあふれている。
 何よりも驚いたことは、短期間のうちに、びっくりするほどうまくなることだ。1回ごとに勘どころというか、5・7・5のコツみたいなものを的確に把握してくる。
 句評をしながら、「教えてもらっているのは私の方に違いない」と思った。
 教壇に立った最初のころは川柳でなくてもいい、生涯を通じて絵でも音楽でも、手芸でも料理でも何でもいいから、ものを創(つく)り出す喜びというものを大切にしてほしい、と彼女たちに言っていたのだが、こんなに可能性を秘めた句を見せられると、「何が何でも川柳をやってほしい」と思わず叫びそうになってしまう。
 欲ばりなことはあまり言えないのだけれど、それでも彼女たちは自分を表出するひとつの方法としての「川柳」をすでに知ってしまったのだ。
 「5・7・5の定型を枷(かせ)とするか武器とするかは、あなたたちの腕しだい」と私はいつも彼女たちに言っている。
 5・7・5という定型は一見簡単でひ弱そうに見えるのだか、なかなかどうして手ごわいものだ。
 きっと強靭(きょうじん)に撓(たわ)んで、彼女たちのこれからの人生を受け止めてくれることだろう。