NHK「ぼやき川柳大賞」を獲る方法

兵庫県のペンネーム落ちこぼれがボツ続きの体験を赤裸々に綴ります。

「ぼやき川柳大賞」を獲る方法はこれだ

一、川柳とは

作り方のイロハのイ

私淑する大西泰世先生のラジオでのご発言を私なりに咀嚼してぼやき川柳の作り方、ひいてはぼやき川柳大賞を獲る方法を考えてきました。それを説明する前に、川柳とは何かについて語っておきたいと思います。

この道の先達であられる諸先輩方には「釈迦に説法」になるかもしれませんが、まったくの素人の方もいらっしゃるのでまずは初歩の初歩、「イロハのイ」から説明していきます。

川柳は十七音で作る世界最短の短詩文芸です。俳句が高尚な趣味で、川柳が世俗的な趣味だと考えるのは早計です。私はむしろ川柳の方が俳句より高尚で作りにくいと感じています。

俳句には「有季定型」と言って、季語を織り込むことが必要です。「や」「けり」「かな」といった切れ字もありますが、川柳には季語を入れる必要がなく、切れ字もまず入れません。決まり事がなくてほぼ自由に詠んでいいのです。

端的に言えば俳句は主に文語体を用いて「自然」「花鳥風月」を詠む「花鳥諷詠」ですが、川柳は主に口語体を用いて「人間」「人事」を描く「人間諷詠」、あるいは「社会諷詠」です。ここが決定的に違います。けれども近年の「現代川柳」では俳句と川柳の境界線がはっきりしなくなっているという指摘があることも事実です。

先に十七音と書きました。十七文字である必要はありません。合計十七つの音で作るということです。ということは必ずしも五七五でなければならないわけでもないことになります。定型律といわれる五七五、すなわち「上五(かみご)、中七(なかしち)、下五(しもご)」の組み合わせであることが理想です。これは和歌など古来、日本人が好む七五調であるため、一番据わりが良く、耳にも心地いいのです。しかし七五五、五五七なども不可ではありません。また自由律といって、十七音より多いこともあります。とくに上五と下五については六音であっても許されることがあります。いわゆる破調の「字余り」ですが、読んで気にならない程度なら許されると考えてもらっていいと思います。下五が字余りの下六になるときは上へ持っていって上六とすると字余り感が少なくなり、違和感が減ります。上六とするなら後ろで七五調を必ず守ることが大事です。

私は字余りが好きではありません。五七五に収めないと語呂というかリズムが悪くて何だかムズムズするからです。

逆に上四、下四といった「字足らず」の自由律もあります。これも消化不良で、つんのめるような感じになります。たとえ字余り、字足らずを許容するにしても、中七だけは必ず守るようにしましょう。中七が六であったり八であったりすると、句に締まりがなくなります。間延びして切れが悪くなります。

 

拗音、促音、撥音、長音などの数え方

主婦の小さいゆ、お茶の小さいよといった拗音は前と合わせて1音になります。主婦、お茶とも計3音になります。逆に発見の小さいつ、バッタの小さいツなどの促音は独立して1音ずつになります。発見は4音、バッタは3音となります。カタカナのポスターなどの長音(音引き)は1音に数えるのでポスターなら計4音です。「ん」も1音に数えます。たとえばバイオリンは5音に数えます。

記号の類いは原則使わない

かぎかっこ「 」は使わないのが原則です。疑問符(?)感嘆符(!)、ルビ、三点リーダー(…)も原則として使いません。

一字あけもしないのが原則

一字あけも原則しないことになっていますが、上五から中七にかけて平仮名やカタカナばかりで読みにくいようなときはいったん一字あけを入れて読みやすくすることがあります。視覚に訴えるためであったり、あるいは読み間違いを防ぐために用いるのです。

 

用意するものはない

投資ゼロ、紙と鉛筆、スマホ一台あればよい

川柳を作るのに新たな投資は要りません。紙と鉛筆、スマホが1台あればいいでしょう。紙は広告チラシの裏でもいいです。そういう意味では碁会所に行って碁を打つのと同じくらい安上がりの趣味と言えます。もし用意するものがあるとしたら、柳号(ペンネーム)でしょう。私は姓が越智なので越智子惚と名乗っています。ラジオでは音しか伝わらないので「落ちこぼれ」で通しています。「名は体を表す」といいます。生後六十年、数え切れないほどあった挫折をこの柳号に込めました。

メモをとる習慣が鍵を握る

まずお題から連想することを書き留めることを心がけましょう。鉛筆でメモするのでもいいし、スマホにメモするのでも構いません。五七五よりも長くなってもかまいません。思い浮かぶ情景やキーになる言葉を自分に分かるように残しておくのです。人間は忘れやすいということもあります。そして2、3日はメモと連想の記録にとどめて「寝かせておく」のもいいと思います。川柳大会で優秀な成績を収める女性の暮らしぶりを人づてに聞いたことがあります。寝床の横にメモを置いて寝入りばなや寝起きのうつらうつらしているときに思いついたことを書き留める習慣があるそうです。メモをとる習慣こそが成否の鍵を握ります。

 

紙の辞書かネットの辞書をひける環境に

手元に国語辞典、漢和辞典類語辞典、比喩辞典の類いがあると便利です。川柳表現辞典なども出版されています。これがあると心強いと思います。紙の辞書がなくても、インターネットにつながる環境があれば、パソコンかスマホでネット上の辞書にアクセスできますので、これで代用しましょう。

川柳を作るのに適した場所は

散歩と電車・バスの中、お風呂が最適

 パソコンの前に座ってうんうん唸っていてもいい川柳は作れません。「お題」をスマホのメモ帳に書いて、まずは散歩に行くとよいでしょう。駅までの徒歩、スーパーまでの徒歩、電車やバスに揺られているときが川柳を作る大チャンスと心得てください。お題を心の中で何度も念じながら歩いていると脳が活性化して不思議とイメージが湧いてきます。表現したい情景が動画で思い浮かびます。次にその情景について、最初は散文形式で「何が何してどうなった」と長めの文章を考えます。さらにその文章を短く五七五に落とし込むにはどういう言葉をどう並べるかを考えるのです。上下を出し入れしてなるべくすんなりと流れる五七五を目指します。ギクシャクした言葉の羅列ではリズムが悪くなります。

 お風呂につかっているときも川柳の名作を作るチャンスです。緊張がほぐれ、リラックスしているときにこそ妙案が浮かびます。いい句を思いついたら下着を着てパジャマを着て、すぐに紙かスマホに書き留めましょう。案外、すぐ忘れてしまうものです。推敲も湯冷めしない程度にあとでやればいいのです。しばらく寝かせておいてあとで読み返すと、我ながら「それがどうした?」と思うような駄句であることが多いものです。ここでもうひとひねりできないか考え直したいところです。もし完璧に仕上がったら一言一句いじるところがなくなります。たいていは思い過ごしですが、我ながら完膚無きまでに完璧な出来の時もあります。迷惑がられるでしょうが、周りにいる人に読み聞かせてみるとよいでしょう。聞いた人がさっと意味を理解してキャキャッと笑ってくれるようなら上出来と言えます。

 

どこに応募するのか

応募する場所を決めることが動機付けになる

発表の場を自分に課す

「いつかどこかで発表しよう」ではものぐさな人間のこと、毎日の身過ぎ世過ぎにかまけて安易な方向へと流されていきます。「水は低い方へ流れる」ともいいます。発表の場を自分で設けて自分に課すことが何より大事です。川柳は発表の場がないと頑張れないものです。日記帳に書き留めて一人でほくそ笑んでいてもだめです。同人誌に投稿する、カルチャーセンターの教室に通う、インターネット川柳に応募する、ラジオの川柳に応募する、公募雑誌の募集に応じる、句会に参加するなど、とにかく公の場で腕試しをすることを目指さないとモチベーションは上がってきません。

私の場合は2000年ごろ、職場の仲間と「冠句(かんく)」の句会をしたことが最初の出会いでした。冠句とは冠(上五)が定まった川柳です。句会を前に席亭がたとえば「困ったな」をお題にすると通知します。そこから参加者は上五「困ったな」に続く中七、下五を考えて競い合うのが冠句です。たとえば「困ったな歯磨き中に宅配が」。これは駄句ですが、たとえばこんな句が句会を前に席亭の元に集まります。席亭は名前を伏せて全句をアトランダムに並べて皆に渡します。句会当日、参加者は自分の句以外から上位一〇句を選句して持ち寄り、順次発表します。それが投票になります。自分の句が選ばれて読み上げられると「越智子惚でございます」などと作者として初めて名乗り出るのです。発表が出そろったところで最後に集計して優勝句、準優勝句などが決まります。この冠句の延長線上に私の場合はラジオ川柳がありました。2013年から「ぼやき川柳」の世界に足を踏み入れました。2年前からは大阪にある全国最大の川柳結社「番傘」の誌友になっています。まだまだ駆け出しの若輩者。いわば雑巾がけの身分です。

さて話がちょっと脱線してしまいました。自作の句をどこに応募するにしろ、作品がボツになってしまうのは試練でも何でもありません。「普段通り、平生、日常、ちっともつらくない」と考えてください。「採用は望外の幸せ」と考えればボツに思い悩む必要はありません。

募集の趣旨を理解しないとボツになる

募集要項をよく読みましょう。まず何を求めている川柳であるのか、主催者側の意図を考えましょう。誰が募集しているのかをよく見ましょう。生命保険会社なのか、衛生品を製造・販売している会社なのか、地方自治体なのか、国なのか。それによって求めるものも違ってきます。川柳を募集することによって、会社の知名度を上げたり、商品の販売戦略に生かしたり、地域の名産品のPRに役立てたりしようとしています。要するにそれによって何かを実現しようとしているわけですから、何を意図して川柳を募集しているのかを汲み取ることが大切です。主催者のいわば期待に沿った作品を繰り出すのが入選への近道です。過去にどんな句が入選したのかを調べて、しっかり読み込むことも大切です。なるほど、こういう句を募集しているんだと判断できます。

選者も人、「選は創作なり」と覚悟する

虚子の言葉「選は創作なり」

自分の句が採用されるかボツになるか。選者に左右されるのは致し方ないと心得ましょう。俳人高浜虚子も「選は創作なり」と自戒しています。いったい何を選び何を捨てるかで選者の作家としての力量や川柳への向き合い方も問われているのです。恐らく良い句の客観的基準はありません。俳句の世界はとくにそうです。選者の意向が直截に反映されると思います。けれど川柳には最大公約数のような基準があると思います。それは「大多数の人にとって面白いかどうか」という基準です。素人っぽくても視点(見つけ)が斬新な切り口であれば、たいていの選者が選んでくれ、聞いた人は笑ってくれます。老練な川柳作家の作品よりも素人がたまたま思いつきで作った句の方が面白いことがあるのは素人の視点が新しいからです。こういうことが起きるから川柳はやめられないのです。

 

題材の選び方

お題がある題詠の方が作りやすい

雑詠と呼びますが、「何でもいいですから思いつくまま川柳を詠んでください」といわれると案外、行き詰まるものです。まずは題詠と言われるお題に即した句作りから始めましょう。新聞や雑誌などで公募している川柳にもほぼお題があります。漠然としたお題であるとかお題がない場合は、「このテーマを突いていこう」と自分でお題を定めて応募すると良いでしょう。募集側のスイートスポットに嵌まれば確実にヒットします。打てば響く句、「こんな句を待ってました」となります。

 

心から笑えない題材は選ばない

言わずもがなですが、題材選びにおいても偏見、差別、タブーには踏み込まないようにしましょう。公共性にかんがみて疑問が出る句、節度・倫理を逸脱した句は選ばれません。たとえば、不偏不党ではなく特定の政治団体に加担する句、現在の政治・政権を一方的に辛辣に批判する句、一般的な神道仏道以外で宗教的に偏りがある句、タブーをテーマにした句、商品名・商標名の入った句、男尊女卑が著しい句、個人攻撃や他人の名誉を毀損する内容の句、尾籠な題材の句はやめておきましょう。発表には適さない独りよがりの句と見なされます。

破顔一笑という言葉があります。にっこりと心の底から笑うことです。笑ったあとに顔が引きつるような笑いは本当の笑いではありません。愛想笑いや作り笑いもしかりです。川柳では読んだ人が破顔一笑になることが第一です。一にも二にも人を嗤うのではなく人を笑わせることです。

 

時事川柳は足が早いと心得よ

時事川柳も勉強しておきたいものです。サラリーマン川柳やOL川柳、介護川柳も時事川柳ととらえる分類法もありますが、ここでは狭義の時事川柳すなわち「政治や社会を風刺、批判する川柳」について考えます。新聞の川柳欄を読んでみてください。「よくぞ言ってくれた」と快哉を叫びたくなる名作がある一方、何について言っているのかさっぱり分からないものも採用されています。後ろにある選者の句評を読んで初めて「ああ、あの不祥事のことか」と分かるというようなこともよく起きます。要するにお題が織り込まれていないからこうなるのです。いま世間の耳目を集めている話題は何かを新聞やテレビで見聞きして考えておく習慣があれば時事川柳は当意即妙の傑作群に見えます。しかしこれは諸刃の刃でもあります。いわゆる時事ネタはまさに旬でタイムリーな(時宜を得た)ものだとおおいに受け入れられますが、笑えるのは所詮いっときのことと心得なければなりません。たとえば一カ月もたつと、そのネタはもう古くなります。「何? 今ごろになってそれは」という扱いです。そういう意味で時事川柳には普遍性というものがありません。鮮魚で言えば足が早い鰯みたいなものです。一瞬の閃光に賭けた句であるとも言えますが、後世に残る名句にはなりませんし、将来必ず忘れ去られるのです。ラジオの「ぼやき川柳」でも時事川柳は一つ選ばれればいい方です。たとえば私の入選句に「十億を払って軽で町に出る」というのがあります。2019年3月6日、日産のカルロス・ゴーン前会長が10億円の保釈金を納付し、仮装して軽自動車に乗り込んだときの驚きを句にしたものです。今となってはどうでしょう。一読して笑える句ではなくなっているように思います。世間の注目が集まっているときなら「なるほど」と膝を打って共感してもらえますが、時間が経ち、記憶が風化してすっかり古くなってしまいました。

 

大賞を獲る川柳はこうして作れ

皆と同じ着想は捨て、自分の体験に引き付けて考える

最初の思いつきはまず平凡と心得ましょう。それは捨てて他人が考えないこと、奇抜なことを考える習慣をつけましょう。

たとえば「焦る」というお題が出されたとします。まず何を連想しますか。私なら「レジでお金が足りなくて焦ったなあ」「電車に飛び乗ろうとしたら目の前でドアが閉まって恥ずかしかったなあ」「着替え中に宅配業者の人が玄関のベルを鳴らして、急いで服を着たなあ」などと個人的な思い出を手繰り寄せ、芋づる式に連想を広げていきます。ここで注意したいのは、句作りに励むみんなが連想しそうなことはあまり深く追求しないということです。類句(類想句、類似句)で応募すると競争率が高くてボツになる可能性が高まります。わずか十七音の戦いですから、同じ発想の似たり寄ったりの句が集まるものです。概して自分が最初に思いつくようなことは誰でも思いつくことです。まず最初に思いついた平凡な2、3句は捨てる勇気を持たなければならないと考えてください。ただし、自分の体験に深く根ざした事柄だったとしたらそれは追求してみるべきです。いわゆる「実感句」になりうるからです。体験した者にしか分からない言葉がひょいと飛び出してきて説得力を持つかもしれないのです。こうして与えられたお題を自分の体験に照らし、自分自身に引き付けて考えることはとても大切です。

 

神は細部に宿る

題材は日常のささいなことに神髄を「見つける」ことです。「神は細部に宿る」と言います。あるいは「真理は単純だ」とも言われます。ささいなことを描くことで大局が読み取れるような句にしたいものです。

五感に訴える

人間には五感があります。視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚です。五つにとどまらず第六感まであるとさえ言われます。五感を刺激する、すなわち五感を織り込んだ句にすると、読者は直感的に情景を思い浮かべることが出来ます。言葉で説得するように見せかけて、実際は感覚に訴えるのです。すると動物的な勘で読んだ人は察知します。

オノマトペを駆使する

擬音語・擬態語を入れるのも面白いでしょう。ガチャガチャ、バタバタ、ガラガラといった擬音語、ヌルヌル、ツルツル、クルクルといった擬態語を入れると句を躍動的にする効果があります。文字数が許すようなら試してみましょう。

具体的な数字を入れてみる

千円札とか五円玉とか五合瓶とか、生活シーンに出てくる具体的な数字を挙げて句に織り込んでみましょう。「これっぽっちか」「みみっちいなあ」などの気持ちを言外に匂わせることができます。すなわちその数字が人間の小ささを測る物差しの役割を果たして、句に滑稽さがにじみ出ることになります。

大上段に構えない、抽象論は要らない

サラリーマン川柳は根強い人気があります。時事川柳よりははるかに賞味期限があります。句で描く世界の基本は「上司の顔色ばかり窺う宮仕えの平社員の悲哀(ペーソス)」です。会社員という働き方がつづく限り、サラリーマン川柳の名作は生き残ることでしょう。2020年のコロナ禍では、「3密」「リモート」「巣ごもり」「在宅」「マスク」「消毒」「うがい」「ステイホーム」などをテーマにした句が一気に増えました。時代のその場その場で庶民が作った句を書き残しておくことは大切なことです。将来、庶民の生き様を検証するのに重要な手がかりになります。「人生100年時代」と言われる現代は「老い」や「介護」もテーマになる時代です。あるいは個人の幸せとは何かとか、家庭の在り方や家庭内のいざこざも問われる世の中です。

ただしここで気を付けたいのは、「人生とは」「人間とは」「幸せとは」「生きるとは」といった、刀を大上段に構えたような句を目指さないことです。抽象的な表現を用いた句は大概失敗に終わるのでやめましょう。日常の些事に着目しましょう。小さいことを語っているのに大きいことが見えてくるのが川柳のすごいところです。

 

中七は必ず守る

川柳を作るときに気をつけるべき技法があります。

一つは上五をけれん味のない導入部とするか、あるいはまずテーマを提示していったん止めるかを考えることです。

次に中七は字余りにならないようにすんなり状況を説明しつつ後ろへ流れるようにつくる必要があります。ここが中六だと消化不良になり、中八だと間延びします。上五か下五に名詞があるときは中七で名詞を使わないようにするとよいでしょう。とにかく中七は後ろへ水が流れるように作りましょう。

そして下五(座五、止め五)が勝負です。板を差し合わせて作る和家具指物がぴたりと嵌まって微動だにしないようなそんな下五を考えましょう。下五は決してないがしろにせず、ああでもないこうでもないと考え抜きましょう。下五を名詞にして、上五や中七がそれを修飾するように持っていくと句が落ち着きを見せることもテクニックの一つとして覚えておきましょう。

そのためには上五や下五に使える決めぜりふの「五音」の言葉を日頃から集めてストックする訓練をしておくことが重要になります。たとえば回転寿司とせず、回る寿司とすれば五音です。妻の愚痴、言い逃れ、赤い糸、厚化粧、孫自慢、千鳥足、老い二人、共白髪など五音を準備しておきましょう。

 

 

リズムを心がける

句は全体のリズムが大事です。名詞、体言止めの連続になっていないかを考え、順番を入れ替えたりしながらブツ切れ感をなくすことに気を配らなければいけません。入るところにはぜひ助詞の「てにをは」を入れましょう。まずは声に出して読んでみることです。まったく先入観や心の準備がない人に読んで聞かせて、内容がすんなり伝わる音になっているかどうかを考えましょう。音の心地よさはラジオ川柳では生命線です。ぎくしゃくしていないか、流れるようなリズムになっているかをいつも気にとめておきましょう。

 

一つの事柄にフォーカスする、二兎を追わない

川柳ではいわんとすることが何かがはっきりしないといけないと考えます。一つの事柄に焦点を合わせる(フォーカスする)だけでいいのです。多くの要素を盛り込んで一度に多くのことを語ろうとすると五七五では収まりきらなくなって、逆に言いたいことが伝わらなくなります。「二兎を追う者は一兎をも得ず」といいます。一兎を追うだけでいいのです。一つの事柄にフォーカスすることでその背景や他に抱えている問題もありありと見えてくるというのが理想です。カミソリのような「一瞬の切り口」「一つの視点からの活写」で勝負したいものです。

 

感情は書き込まない、句全体に語らせる

句に感情は書き込まなくて良いのです。句全体に語らせることが大事です。「楽しい」「悲しい」「悔しい」などの感情を句に織り込むことはしないようにしましょう。描く物やしぐさに語らせるのが良いのです。感情の襞、人情の機微を具体的な物やしぐさ、言動に語らせるのです。季語の要る俳句のような花鳥風月ではなく「人間」を描くのが川柳です。ケチ、名誉欲、見栄っ張り、羞恥心、欲の固まりなど人間の本性を考えます。つい口をついて出てしまう噓、どぎまぎしてとっさに取ってしまう行動、目は口ほどに物を言うと言われる、そんな目の動きなどに着目しましょう。それらを描写することで、おのずと感情が浮き彫りになってきます。「具象を用いて心象を描く」と言い換えてもいいと思います。

 

ことわざや慣用句のパロディーは百害あって一利なし

故事成語、使い勝手のいい手垢のついた言葉は使わないようにしましょう。これを文句取りと言います。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」「女房と畳は新しい方が良い」といったことわざとか、慣用句「ひと泡吹かせる」「同じ釜の飯を食う」「猫も杓子も」「開いた口がふさがらない」とか、四字熟語の「馬耳東風」「五里霧中」「同床異夢」など、聞き慣れた言葉、手垢の付いた言葉や言い回しをそのまま使うのは逆効果です。正直なところ、手垢のついていない言葉というのはありませんが、端的に表すのが既存のことわざや慣用句であるのなら改めて川柳をひねる意味がありません。ただのパロディー(いわゆるパクり)やおじさんの駄じゃれになってしまいます。川柳でのパロディーは百害あって一利なしです。結果が見える既定路線に乗っかってはいけません。常軌を逸したような意外性こそが狙い目です。サッカーに例えましょう。「おいおい、そっちか」とDFの選手に呆れられるような、「裏を取る」FW選手を目指すことです。そのためには突拍子もないことを思いつく不断の努力が必要です。

 

平均遊具品を旨とする

「平均遊具品」という造語をご存じでしょうか。辰濃和男(たつの・かずお)さんの言葉です。1975~1988年に朝日新聞の「天声人語」を書いておられた辰野さんが毎日の執筆で、いわば座右の銘として心がけていたことで、岩波新書の「文章の書き方」に詳しく書かれています。「平」とは平明であること、「均」とは均衡がとれていること、均整がとれていること、あるいは平均的であること、「遊」とは遊び心があること、「具」とは具体性がある、具体的であること、「品」とは品位・品性があること。これらは散文を書くうえでの戒めを説いた言葉ですが、私は川柳を作るうえでもこの「平均遊具品」を心掛けるべきだと思います。

 

短編小説を五七五に落とし込むイメージを持て

読み上げたときに、まるで一編の短編小説を読み終えたあとのような読後感がこみ上げてくるのが理想です。感覚を研ぎ澄ませ、あるいは無駄を削ぎ落として短編小説を五七五に落とし込んで凝縮したいものです。すなわち五七五の中に物語性を持たせるということです。十七音がいろいろな空想や連想の起爆剤となって、読むたびに味わいが変わると良いのです。たとえばちょっと古くなりますが、国木田独歩の短編小説に「忘れえぬ人々」という名作があります。最後の最後にどんでん返しが待っている傑作です。果たして五七五であの境地に達することができるでしょうか、できないでしょうか。私が理想とするところです。

 

下五で勝負、どんでん返しを試みよ

先にも書きましたが、川柳は下五が勝負だと考えます。ラスト五音ですべてが決まります。ここで予定調和のような句にするのか、どんでん返しを試みるのかで結果ががらっと変わります。付け焼き刃といいますか、取って付けたような五音ではいけません。あたかも作為がないかのような、誰が詠んでもそうなるかのような五音をくっつけます。そう、くっつけるという意識もない方がいいでしょう。自然な流れでこう落ち着いたと思わせるような企み・意匠が必要です。冷静にしたたかに弓で矢を放って的の真ん中を射ぬくイメージです。下五は連用形で止めざるを得ないとき以外は終止形にしましょう。川柳がその成り立ちから付け句だったためその名残があると考えられます。連用形にすると余韻が残るという長所もありますが、終止形の方がきっぱりとして落ち着きが出ます。

 

川柳の三要素、穿ち、軽み、おかしみを網羅せよ

川柳の三要素である「穿ち」「軽み」「おかしみ」について考えます。穿ちとは、「そういえば考えてみたことはなかったなあ。しかし言われてみれば確かにそうだなあ」とか、「みんなが実際に密かに気づいていて、まるで仮面のように隠されていた真実をここで端的によくぞ言い表してくれたなあ」というようなことをズバッと表現することを言います。あるいは「みんなが当然そうだと思っていることの裏側を突く」と言い換えることもできます。ただし穿ちすぎてはいけません。皮肉になってしまいます。へそまがり、あまのじゃくであることとも違います。

そして一番大事なことなのですが、深く考えたあとで軽く平易にそれらを表現するのがミソです。いわゆる「軽み」です。小難しい論理を構築して人を論破するようなものは川柳の目指す境地ではありません。例を挙げましょう。米アップル社の創業者の一人、故スティーブ・ジョブズ氏の名言に「シンプルであることは、複雑であることより難しい」というのがあります。川柳においても同じことが言えると思います。これが「軽み」の神髄です。

そして最後の「おかしみ」ですが、句を作ったあとに「これでクスッと笑えるか?」と自分でツッコミを入れるとよいと思います。作ったあとに時間を置いてみて本当に面白いか冷静に省みる習慣もつけましょう。「寝かせる」「時間を置く」ことも大事です。何事でもそうですが、名作は平易で、何度読んでも飽きないし何度でも笑えるものです。そうなると自虐ネタ、加齢の悲哀(ペーソス)、おもろい人間や小心者のつぶやきが万人にウケることになります。川柳というのは不思議なもので、傍若無人で厚かましい人、豪胆な人物、豪傑はこの世界には寄ってきません。日頃から自分を見つめ、他人の失敗談をよく聞き、頭の中で描き、自分の記憶にとどめておくことが川柳作りの基礎になります。それがやがて自分にしかない引き出しになります。自分の体験に照らして材料が出尽くしたときは他人の話から得た引き出しの中から取り出しましょう。

 

 

困ったとき、行き詰まったときにはこうしよう

辞書を引いて連想を広げる

自分の体験に照らしても広がりがない、行き詰まりを感じるというのであれば、パソコンやスマホのグーグルなどの力を借りましょう。お題が「焦る」であれば「焦る 辞書」と打ち込んでみるとよいのです。手元に用意してある紙の辞書を引いてみてもいいのです。「本来、どういうふうに使う言葉なのかの解説」(用例)を読んでいるとふと自分の体験を思い出すことがあります。あるいは「焦る 連想」と打ち込んでみる手もあります。すると誰かがブログなどでこんな体験をしたと書いて発表しているものに行き当たります。「そうだ! 自分にもあるある、あったあった、こんなこと!」と共感・共鳴できるものが見つかればしめたものです。着想、着眼点を句作りに採り入れてみましょう。

寸法の良い類語を探す

言葉を選んだときも中七には入るが上五か下五には一文字多くて収まらないというようなことが起きます。そんなときは市販の類語辞典をめくるか、パソコンの検索サイトで類語辞典を探してみるとよいと思います。最初の例で言えば「焦る 類語」と打つと出てきます。粗忽者、拙速、早とちり、早合点、軽はずみ、うっかり、うかつなど、似たような意味の別の言い回しや、ややニュアンスの違った、五音に満たない「寸法の良い言葉」が見つかるようになっています。それに「が」「は」「で」「に」「の」などの助詞をくっつけます。こうした助詞は省いてもいいのですが、入るのであればぜひ入れておいたほうがいいと考えます。助詞は潤滑油のようなもので、なめらかに後ろにつながって句にリズムが出ます。単語をギクシャクと詰め込むのではなく、さらりと流れるような句を普段から目指したいものです。注意したいのはたとえば「妻が言う」と「妻は言う」では微妙にニュアンスが変わってくることです。助詞も吟味しながら使いましょう。そして言葉選びで迷ったときはあまり人口に膾炙していない難しい表現の方をまずやめるように心がけましょう。刑事訴訟法では「疑わしきは被告人の利益に」と言いますが、川柳づくりでは「疑わしきは平易な表現に」です。ラジオ川柳では音だけが頼りですので視認性の高い漢字を見せることができません。日常会話に出てくる「普段着の言葉」こそが命です。

お題を織り込まない作戦を取ると、がぜん空間が広がる

行き詰まったときは一転、お題を織り込まない句を考えてみるのも良い方法です。お題を突き詰めていくと、句にお題そのものを織り込むことで言葉が制約されてしまっていることに気づくことがあります。そこで、お題を織り込まないで「全体としてお題の趣旨の句にする」ということも考えたいところです。そうすると空間が生まれます。新しい小道具、登場人物、状況説明を表す言葉を入れる余地ができ、句に時間軸、奥行きなどを書き込むスペースが捻出できます。がぜん自由度が増してきます。お題を別の言葉で言い換える、あるいはカタカナや外来語に置き換えることもありです。お題で「焦る」ばかり考えていましたが、「わきに汗」「舌をかむ」「目が泳ぐ」などの焦っているときに出るしぐさや体の反応が浮かんできます。言葉に出してみると連想できることがますます広がり始めます。

 

推敲の仕方

ただの報告文になっていないか

いざ句を作る段になって気を付けなければいけないことがあります。それは事実や出来事を述べただけになっていないか冷静に考える必要があるということです。「何々がこうしてこうするとこうなりました」の五七五ではただの報告文、事実の連絡、あるいは標語になってしまいます。下五に至る前に着地点が見えるようではいけません。ひとひねりを加えてみましょう。そしてひねりすぎていないかにも注意を払う必要があります。ひねりを利かせすぎるとただの皮肉になっているときもあります。読んだあとに顔が引きつるような笑いは本当の笑いではありません。最後はなるべく平たい言葉で、描きたい状況に最も馴染む言葉を選びましょう。計算ずくでやったかのような作為が感じられない、すんなりと読める、しかししっかりツボを押さえているのがいいのです。自分にしか分からない独りよがりの心理描写になっていないか、ただ自分に酔っているだけの句になっていないかを見つめてみましょう。少し時間を置いて、しばらく寝かせて、頭を冷やしてから第三者的に読み直してみるとよいのです。誰かに読んで聞かせて虚心坦懐に意見を述べてもらうのもまた良しです。

 

ダブり表現はないか

 わずか五七五の十七音の中で同じことを言っていることがあります。たとえば「支払いのレジで家長が尻込みし」と作ったとします。支払いとレジはほぼ意味がダブっています。どちらかを残すだけでいいのです。

 

こねくりまわさない、迷ったら原点に立ち返る

一つ気を付けなければならないことがあります。推敲を重ねすぎないことです。こねくり回して元の句より悪くなるケースがあります。「そもそも自分は何を思いついて何を表現しようとしたのだろう?」と着想の初期段階をしっかり思い出しましょう。メモを残す意味がここにあります。迷いだして行き詰まったらまず原点に立ち返ることを心掛けたいものです。

 

ただの皮肉になっていないか

先に破顔一笑と書きました。心から笑える句を目指します。「穿ち」と称して世間の常識を鋭くえぐることばかりを突き詰めていくと、ただの皮肉にしか聞こえない作品になってしまうことがあります。そうなると、読んだ人には「斜に構えたひねくれ者の愚痴」としか映らなくなります。それは顔がひきつる笑いに転じてしまいます。何事にも加減というものがあります。「過ぎたるは及ばざるが如し」とも言います。

ひねりすぎていないか

ひねりすぎにも注意が必要です。真っ正面から論じるのをやめて別の角度から変化球を投げようとすると、ひねりすぎて何を言いたいのか分からない句になることがあります。まずは直球勝負といきましょう。さきほど書いたようにわかりやすくするとただの報告文に終わる危険をはらみます。海千山千の選者に意味が伝わり、選者の思考回路が働いて、「なるほど」と思わせて選者がぜひ選びたくなるような句を作ることも必要です。ひねりすぎて自分にしか分からないような心象風景、人間諷詠になっていてはまず選者に通じないのです。野球の投手に例えれば、ストライクゾーンに「球を置きに行く」ことも求められます。とはいえ、ただ置きに行くのでは駄目です。平易ながらも奇抜な言葉を繰り出してくせ球にすることが肝要です。変化球しか投げられない投手はやがて球筋・軌道を読まれて打たれます。直球しか投げられない投手もしかりです。タイミングを合わされてコンパクトに捉えられます。緩急を織り交ぜて、まるであざとく感じられない、作為が見えない、けれん味のない句を作るのがミソです。こう書きながら私自身もその近道があったらぜひ教えてほしいとさえ思います。逆にこれだから川柳は奥が深いとも言えるのでしょう。

 

漢字と平仮名のバランスこそ生命線

あまりに平仮名ばかりだと一読して意味が伝わりません。漢字と平仮名を上手に使い分けることを心がけましょう。たとえば「きゅうりょうびちちのせなかがひろくみえ」という句を作ったとします。読みにくいと思います。「給料日父の背中が広く見え」とすると一瞬で意味がつかめます。ただしこの句、給料の銀行振り込みが当たり前になった今では時代遅れの「駄句」です。最近の私の作品です。

 

助詞で句は生きたり死んだりする

助詞のいわゆる「てにをは」をないがしろにしないようにしましょう。「てにをはがもにで」をどう使うかで句が生きたり死んだりします。「夫が言う」「夫は言う」「夫も言う」「夫に言う」。バリエーションはいくつもありますが、一つとして同じニュアンスはありません。句の前後を見渡して最適な助詞を繰り出しましょう。助詞は潤滑油です。入れられるときは入れましょう。ただし気をつけなければいけないのは入れることで何だか説明文のようになってしまうこともあることです。とくに「で」は要注意です。「で」を用いないで済む方法はないか、毎回模索する必要があります。「も」を多用しないことも大切です。それは句に広がりを持たせようとする邪念が含まれているように見えます。

 

もうこれしかない、置き換えが利かない言葉かどうか

 ああでもない、こうでもないと言葉選びを突き詰めていくと、「もうこれしかない、他の言葉では置き換えられない」と思えるときがあります。そうなればほぼ完成です。川柳の世界ではそれを「動かない」と言います。胸に手を当てて考えてみて、天地神明に誓ってうそ偽りのない句であると思えるのなら、それは自分の傑作です。人の評価は関係ありません。

 

 

「これ如何に?」と自己ツッコミを入れてみる

私がよくやっている点検法ですが、「句が出来た」と思った瞬間に声に出して読み上げたあと、句の後ろに「これ如何(いか)に?!」とくっつけてみます。「自己ツッコミ」です。うまくくっついて我ながら笑えるようだとまずまず成功した句といえます。冷静沈着な第三者の「ツッコミ」にも対応できている可能性が高くなります。

九、ぼやき川柳に向いている人と向いていない人

ぼやき癖のある人は「才能開花予備軍」、竹を割ったような性格の人は向かない

ぼやき川柳作家を目指す人についてですが、いつも不平・不満を抱え、身内に愚痴を言い、つい陰口を言ってしまう「面倒くさい性格」の人の方が、残念ながらぼやき川柳に向いていると言わざるをえません。そんな人ははっきり言って「才能開花予備軍」です。あっさりしていて竹を割ったような性格の人は川柳の世界にそもそも来ません。我ながらこだわりすぎる性格だなあと思う人は、持って生まれた川柳の才能があるとプラスにとらえるようにしましょう。ただし皮肉家や斜に構えた人である必要はありません。ばか正直で他人に欺されてばかりだという人の方が川柳作家に向いています。要するに身近によくいる「市井のお人好し」であるべきです。身近で起こるささいな出来事に感動したり怒ったりできることが句作りの出発点になります。「訳知り顔」ではいけません。毎日いろいろなことに驚きながら生きられる人でなければなりません。

 

川柳作家を志す人の毎日の暮らし方

 

「あるある体験」を動画にして頭の中に蓄積せよ

頭の中で「あるある事典」「あるある失敗談」を蓄積する努力をしていくことは大切な作業です。みんなが体験してつい忘れてしまっていること、みんなに共感してもらえるような悔しい出来事、悲しい場面を父母、親戚、妻、会社の同僚、上司といった登場人物を交えた「動画」として頭の中にインプットしておきましょう。そうすると突然与えられたお題に応じて頭の引き出しの中からその動画を取り出してくることができるようになります。診察室、待合室、理髪店、スーパーのレジ、お通夜といった、のっぴきならない状況の「シチュエーション・コメディー」を考えておくと何かと使えます。その動画を「ビビッドな一瞬に切り取って見せる、活写して人に共感してもらって笑わせる」のが川柳の真骨頂、醍醐味と言えます。句が読み上げられた瞬間に情景や映像が登場人物とともに目に浮かぶ、その背後にあるもの、抱えている悩み、心の動きまで鮮やかに見えてくる、何度復唱しても笑える、時間がたっても飽きがこないというのが理想の句です。やがて自分に関する動画だけでは足りなくなりますので、人の話をよく聴いて、その人から聞いた失敗談も動画にして記憶しておくようにしましょう。そうすると何人分もの動画が手に入ります。これが財産となり、自分の引き出しになります。

 

今をうたうことは将来の遺産になると心得る

自分が気づくようなことは何千年も前の先人がすでに気づき、とっくに記録してあるものです。自分の作品はすでに「二番煎じ」であり、「手垢の付いた作品」であることを肝に銘じながら句をつくりましょう。しかし、たとえば江戸時代にスマホはありませんでした。スマホをうたうことができるのは今しかありません。「スマホなんて古い」と言われる時代が早晩やって来ることでしょう。コロナ禍で一年以上マスクをして過ごしたことも令和初期の記憶となることでしょう。今を切実にうたった川柳は将来への遺産(レガシー)になります。

 

作家・向田邦子の境地を目指せ

ビビッドに活写するという意味では、脚本家で直木賞作家でもあった向田邦子の右に出る者はいないかもしれません。1981年夏、台湾での思いがけない航空機事故で帰らぬ人となりました。「父の詫び状」「眠る盃」「夜中の薔薇」といったエッセー集が参考になります。教科書にも載った「字のない葉書」などは読んでいるとまるで目の前で物語が映像として次々上映されているかのような錯覚に陥ります。登場人物、心理描写、言葉遣い、筆者の視線の位置、小道具などがじつに的確に描かれていて、無駄がありません。一文字さえないがしろにできない完璧な筆致です。読み終えると一気に涙が出てきます。

 

盗作は人の道ではない

最後に当然のことですが、過去の名作の模倣をしてはいけません。盗作は人の道ではありません。まったくの論外、即刻アウト、退場です。他人の力作を読んで一度笑ったら、誰それ作の何々ときっちり書き留めて日がな愛唱するか、そうでないなら詳しいところはさっさと忘れるべきでしょう。着眼点・着想とリズムの良さだけは忘れないように体得する、これが本当の勉強です。